色とりどりの棒

いろいろな棒と思考の記録帳

食事概念が崩壊して本当に笑った話

 

 

食事ということは、人間があくまで動物であるということがよくわかるような、とても原始的で生物的な行為だと生々しく感じることが最近よくある。それでも食事という行為は、排泄やら睡眠やらといった、同等に「原始的で生物的」(と僕が感じる)行為に比べて、社会をやっていくのに際し飛びぬけて活用されているのは面白いことだ。興味深いことだ。

 

例えば会社に入ってからもう随分な数をこなした 接待 ということ。接待というのは結局、自分の組織が地位面・金銭面などでプラスな結果を得るという、高度に社会的な目的を持っている。そんな高度に社会的な目的を達成するために、社会的に偉い人たちが一緒に、食事なんていうことをする。言い換えれば、社会的に偉い人たちが一緒に、「経口での栄養摂取」をしながら社会的に偉い話をする。そんなことに、時折だがギャップのようなものを感じるようになってしまった。食事のゲシュタルト崩壊という感じ。そういえば、そんな感じの話が村田紗耶香の小説にあった。

それでこの前、某重役氏と会食(というか接待)があるというんでぺこぺこしながらついて行った。某重役氏との会話は今後の事業展望がどうたらとかそういう類なのに、同時に食事をしている。経口での栄養摂取をしている。笑える。「食事をしている」と言葉で表現すれば全く当たり前のことなのだろうけど、その時の僕はもはや食事概念が崩壊しているので、素直に状況を捉えられない。そうなると本当に笑えてくる。遂に笑いが堪えられなくなって、少し離席してトイレで暫く笑った。酒もほとんど入っていない状態でこれはやばいと思った。接待中にこれはまずいと思った。ちなみに、食事は非常に美味しかった。

 

とにかく、とても大切な場面で誰かと食事を共にする、または食事の場でとても大切な事が決まるというのはよくある話で、これだから食事は本当に凄い。こんなにも原始的な行為が、こんなにも社会的で文化的に発達しているのはびっくりする。

本当に凄い上に、僕は個人的に食事ということ自体が大好きなので、毎回の食事をもっと大切にしたい。正しいものを食べたい。正しい状況で食べたい。好きな人(たち)との美味しい食事は、本当に幸せ。逆に憂鬱な食事会は、憂鬱な会議の千倍くらい憂鬱だ。こんな具合に、もともと持っている感情が、食事を通して増幅されるということ。それもやはり、食事ということが(それは全く恥ずかしいことではないけれども)一般に了解されているよりずっと原始的な要素を含む行為だからなんじゃないか。普段食事概念を語るとき、その社会的な側面ばかりが前面に出すぎているんじゃないか。一度そのように感じてしまうと、厭な会食というのはもはや生理的な厭さを感じるし、人権侵害(言いすぎ)とさえ思えてくる。最近は様々なシチュエーションでそういう人権侵害()も頻発しているので、そういう時は心の底から家に帰って寝たいと思う。

 

ここのところ食事に対していろいろ憂鬱なことがあったから思考が迷走し、挙句の果てに食事概念が崩壊して会食の場で笑い出すといった事故が起きたのかもしれない(単なる言いがかり)。というか、この記事自体が何をいっているのかよくわからなくなってきたのでそろそろやめる。とにかく正しい食事がしたい。それから厭な食事を取り除き、楽しい食事をもっとしたい。なぜなら、楽しいことは基本的には良いことだからだ。

 

 

「強い表象主義」界隈について その二

 

 

勉強ノートの続き。

ジャクソンが「最小の表象主義」と「透明性テーゼ」の正しさを信じ、それを用いて「強い表象主義」を導く仕方は、その論理的不明瞭さの問題もあり、必ずしも説得力のある論証とはいえないと山口先生は考えている。しかし、強い表象主義を証明しないことには「クオリアは知覚や感覚の表象的性格を越えない」(p221)というタイプA物理主義的な結論を導くことはできない。そこで著者本人による「論理的に妥当な」強い表象主義の証明がここでは行われる。

 

ところで山口先生によれば、「心的状態それ自体が主体へ提示するもの」(p222)という意味合いとしての心的状態の性格 character を考えるとき、それは「対象の性格」「自立的性格」という2つに分類される。「対象の性格」は字義通り対象へ帰属する性格である。一方の「自立的性格」とはその反対で、いかなる種類の対象にも属さない性格のことである。とはいえ、あくまでひとまず考え方を便宜上このように分類しただけであって、両者が共に存在するというわけじゃない。

さらに、心的状態の対象についても「表象的対象」と「非表象的対象」の2種類に分類する。前章で確認したように、表象的対象は志向的対象であり得る。この考え方は世界を「正しい表象をすること」/「誤った表象をすること(錯覚とか)」を的確に説明する。(とはいえ、例えば心的状態の議論における直接実在論を錯覚の存在などを考慮して否定したような状態で、志向的対象に対しての世界の表象の「真偽」はどうやって決定されるのかはまだ全然わからない。しかしこの点は、後に可能的個物という概念を伴って説明される。よかった。)

一方で非表象的対象とは、それがセンス・データであるような対象のことだという。表象には実際のところ真偽があるという特徴を鑑みると、センス・データはその特徴を汲み取って説明することはできておらず、だからそれが世界を表象しているとはいい難い。センス・データは、「通常の対象」とは存在論的身分が全然違うのだ(だが、いきなり通常の、などと言われてもなあという気も少しする)。

 

さて、以上の道具立てが揃ったところで、選言主義テーゼ the Disjunctivist Thesis と、その逆である非選言主義説 the Non-Disjunctivist Thesis が導入される(p225)。ここがある意味で議論の真打ちなのだが、ここを読んでいると、山口先生の目指した論理構造とは、述語論理的なそれだったのか、ということが見えてくる。骨格を掴むだけならもう少しだ。

それで、ここでの選言主義テーゼとは、「心的状態が、表象的対象と非表象的対象を併せもつ」(p225)ということである。つまり、心的状態の対象は2種類あるということだ。非選言主義テーゼはその逆で、心的状態は前者のように表象的対象と非表象的対象が混ぜこぜになることなどない、心的状態の対象は1種類だけだという命題である。つまり、非選言主義テーゼによれば、心的状態の対象は完全に表象的対象であるか完全に非表象的対象であるかのどちらかである。

ここで著者は非選言主義テーゼが正しいと考える。なぜなら、選言主義テーゼの場合は、心的状態においてはどこまでが表象的対象(≒志向的対象)で、どこからが非表象的な対象(≒センス・データ)なのかを判断することの無理みなど、なにかと無理みがあるからだ。

この議論が正しく、また最小の表象主義が同時に正しいのだとしたら、選言主義テーゼのみならず、非選言主義主義テーゼの「心的対象は完全に非表象的対象である」という一方のオプションも拒否される。

つまり、心的対象は完全に表象的対象である。これは強い表象主義の主張に他ならない。

 

なるほど。

この議論の骨格は、「あるものはRである」「全てのものがRであるか、全てのものがRでないか(のどちらか)である」という前提から「全てのものはRである」を導くという、明解に述語論理的な推論であり、確かにわかりみが深い。後でちゃんと計算してみようと思う。

でも、これだけでは志向的対象こそが正しい表象的対象の解釈であるということがよくわからないし(これはこの後のテーマになる)、結局この議論は解放されたメアリーに何が起こったという議論なのかもまだわからないし(これは前章の議題)、そもそも最小の表象主義が本当に正しいのかについてもセカンドオピニオンがほしい。それから、選言主義テーゼの否定が少しあっさりしすぎている気がする。もう少し知りたい。等々、やはりまだ、わかるという気持ちになるには早い。早くわかりたい。

 

 

「強い表象主義」界隈について その一

  

山口先生の『クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと』は、卒論の時にも引用させていただき、なぜか卒業してから遅すぎる購入、以降わかり砂漠©が出現するたびに読んできた楽しい本なのだが、ここへきて本格的に何もわからなくなってきたので、わかりたい。

わかった後の目標としては、能力知ついての第七章・(新)ジャクソンの表象主義についての第八章の感想がいいたい。ではなぜいいたいのかというと、結局タイプA物理主義がなんぼのものなのか知りたいからだ。というわけでまず議論内容を追いたいと思う。ここでは第八章第三節(pp201-220)まで。

 

心の哲学の有名すぎる思考実験「メアリーの部屋」の文脈において、チャーマーズ式の便利な分類でいう「タイプA物理主義」へと転向した(新)ジャクソンは、表象主義を採用することで(旧)ジャクソンに立ち向かっていくのだった。

では(新)ジャクソンの表象主義とはなにか。

心的状態のなかでも、「態度」というカテゴリーについては、「信念の本性は表象的性格であり、表象的性格は機能主義的に規定される」という(広義の)物理主義的な説明が既に確立されつつある。この説明を、「知覚」「感覚」といった、目下(その現象的側面の問題を伴って)問題となっている他のカテゴリーにも完全に適用することができれば、つまり知覚・感覚についても機能主義的説明はその本性を余すことなく汲み取れるということで、今回の目的は達成される。これを証明するのが表象主義に即した(新)ジャクソンの仕事である。

 

仕事をするにあたって、まず彼は、「最小の表象主義」「強い表象主義」「透明性テーゼ」という道具立てを用意する。やりたいことを先取りしていってしまうと、「透明性テーゼを使って、最小の表象主義から強い表象主義を導く」ということらしい。

なお最小の表象主義とは、「対象を表象しない心的状態はない」ということであって、逆にいえばある心的状態には非表象的な要素が含まれることを否定しない(p209)。そして最小の表象主義は、多く立場の哲学者が認めるものであるらしい(…本当にそうなのだろうか。ここの註にはブロックが強力な批判者であることがわずかに仄めかされているが、それは一体どんな議論だったか忘れた。この辺りは砂漠地帯)。その際、もし実際に知覚や感覚の表象内容の中には非表象的な要素としての「クオリア」が存在しており、かつクオリアは機能的な分析の範疇から逸脱しているのだとすれば、表象主義によるタイプA物理主義は端的に失敗している。したがって、最小の表象主義は新ジャクソンが旧ジャクソンに対抗するという目的を達成するのに十分ではない。

一方で強い表象主義とは、「心的状態とは完全に表象的である」ということであって、要は心的状態の構成において、非表象的・現象的要素としてのクオリアの類などないということだ。これならタイプA物理主義としての目的は達成される。

 そういうわけで、ジャクソンは最小の表象主義から強い表象主義を導かなければならない。そこで使われるのが「透明性テーゼ」だ。透明性テーゼは、著者によれば「心的状態が主体へ提示するものは、この状態の対象の性質である」(p213、太字は本来ルビ)ということである。

ちなみにここでいう「対象」の説明として、ジャクソンは3つのオプションを用意している。それは、素朴実在論的な帰結をもたらす「時空的対象」説・非表象的な心的存在を心的対象と見做す「センス・データ」説・物的対象そのものではなく、表象されるあり方(事)が対象であるとする「志向的対象」説だ。どれが正しいのかの議論は本筋から逸れるわけだが、とりあえずジャクソンの議論を追うために「志向的対象」を正統的見解とする(ここも砂漠だったが後に説明があった)。

 

ともあれ以上の道具立てが揃ったところで、ジャクソンによれば、最小の表象主義と透明性テーゼを組合せて用いると、「心的状態の対象は志向的対象である」という中間結論が帰結するらしい。さらに中間結論と透明性テーゼを再び用いると、強い表象主義が帰結するという(p217)。確認したとおり、強い表象主義はかの思考実験における二元論的な(そして物理主義者にとっては奇妙な)帰結を拒否できる。めでたい。

しかし著者によれば、帰結には賛同するものの、議論の道筋はいまいちである。いまいちすぎるのである。というのも、この論証がいかなる論理形式・推論規則を用いているのか、よくわからないからだ。そういう論証は駄目なのだ。だから、著者はオリジナルな別の論証で強い表象主義を支持したいと思っている。第四節以降では、山口先生流の論証で強い表象主義が正当化されてゆく。

 

という理解でよいのだろうか。

本当は第四節以降も書こうと思ったのだが、夜が明けて日が昇ってきた。いみじきことだ。

 

 

 

雄山一

 

三宅島のおっさんと火山の話。

 

11月、離島への船旅がしたくなって、オフィスにでかいリュックを持ち込んで、仕事が終わったら竹芝桟橋へと直行、三宅島・御蔵島八丈島へ向かう夜行船に乗り込んだ。翌朝には八丈島にいる。はずだったのだが。

その日の伊豆諸島は嵐。船は揺れまくるし、デッキに出れば暴風で歩くこともままならない。そんなわけで真夜中に三宅島に寄港した後、4時間くらいかけて八丈島に向かったものの、着岸が難しいとのことで遂に引き返し、また4時間かけて三宅島に戻ってきてしまった。揺れる揺れる、全く無為な8時間の浪費。この不確実さと荒れた海に対する無力感も、離島への船旅の醍醐味と思わなければならないようだ。

 

ところで、なぜ同じ気象条件なのに三宅島にだけは着岸できたのか。それはどうやら、波の向きによって、嵐の中でも着岸できる港の方角というのがあるかららしい。例えば南の風なら、波の影響が少ない北向の港は強い、とか(そんなに単純ではないだろうけど)。

では、それぞれの島に港は何ヵ所あるのか。

御蔵島は北(御蔵島港)に1箇所。八丈島は北東(底土港)・南西(八重根港)に2箇所。対して、三宅島には東(三池港)・南西(錆ヶ浜港)・北西(伊ヶ谷港)と3箇所ある。三宅島の場合、この3つのうちどれか2つが駄目でも、どれか1つが使えれば良いので、着岸率が上がるというわけだ。

七島の中心地である八丈町より、人口も少ないこの三宅村に、大型貨客船が着岸できる港が多く整備されているというのは、少し不思議なことだとも思った。

 

 

さて長大な前提となったが、三宅島を隅々まで案内してくれたおっさんが、この港の多さの理由をも語ってくれた。おっさん曰く、理由は雄山の噴火だった。間接的には、だけれど。 

雄山は三宅島の中央に聳える活火山で、20年ほどの周期で内部にマグマを溜め込んでは噴火を繰り返しているらしい。最近は1983年と2000年に火を吹いた(僕も2000年の噴火はテレビの中継で見たのをなんとなく覚えている)。

その度に、島は滅茶苦茶になった。

1983年噴火では集落に溶岩がなだれ込んで学校が全部埋もれた。その赤黒い溶岩の上を歩くことができる。2000年噴火では何年間も島外避難を強いられ、泥流が神社を埋め尽くし、有毒ガスで木はみな立ち枯れた。それらもまた、露骨に姿を留めている。

 

こういう荒々しい島なので、島民はさぞ辛いだろう、可哀想だ、と思ってしまう。だが、そういう本土民の「可哀想だ」のおかげで三宅島の経済は回っているのだ、とおっさんは話す。

例えば港が八丈島より多いのも、噴火の度に国や都からの復興予算がつくかららしいのだ。それから噴火があると、消費者の心理が同情に傾くことで物産もよく売れた。公共施設も建て替えられた。島の経済は、間接的には噴火で成り立っているというのがおっさんの意見である。

「だから、三宅島の経済が行き詰まってきたら、雄山に一発ドーンといってほしいんだよ。次は東京オリンピックが終わったあたりがいいなワハハハ」とのことだ。

 

全くなんちゅうしたたかさかと思う。

 

どうやら噴火に対してこんなに飄々としていられるのは、最近の噴火では(奇跡的に)ひとりの死者もだしていないからのようだ。それでも雄山にはかなり生活を乱されているはずなのに。

おっさんからは「島民として雄山と共に生きる」という気概みたいなものも感じたが、そこに復興予算や同情心理をあてこんでいるという、あまりにも現実的すぎる要素が加えられために、その気概は全く綺麗事ではなくなっていた。いやしかし、その分かえって凄味のある気概がじわりと伝わる。

山への敬意、山への畏れ、それから山の災さえもをしたたかに利用すること。全部ごちゃまぜになって味わい深い。

こういう感覚をどう思うかはひとそれぞれだと思うけれど、僕はそのしたたかさを格好良いと感じる。

もちろん、それを自然災害の被災者一般へと敷衍して捉えるのは違う。これは被災者の心理の話などでは決してなくて、三宅島の島民の話でも決してなくて、一人のおっさんについて僕が感じたことの話だ。ただ、そのおっさんは滅茶苦茶に強い奴だった。

 こういう考えは、やはり現地に行かないと聞けないのではないか。そう思うと、三宅島に行って良かった。

 

東京へ帰る際、おっさんは三池港まで車を出してくれた。そうして着いた港の待合室には、本土のロータリークラブが建てた「滅私奉公」みたいな文字を刻んだでかい碑がある。いつだかの噴火の際、そのロータリークラブがボランティアに来たときの記念碑だった。

僕はそれを、端的に趣味が悪いと思った。島民はどういう目でそれを見るのだろうか。三宅島の焼酎で酔った頭で考えてみる。

 

三宅島の焼酎は、名を「雄山一」という。

雄山はすごい山だ。おっさんはすごい奴だ。

 

 

脱毛脅迫

 

秋はよい季節だが、今年秋になってよかったことのひとつは、夏が終わって某脱毛サロンの広告がめっきり減ったことかも知れない。あの広告、かなり怖かったと僕は思います。

 

例の広告には「男性はうなじに弱い、女性はうなじに甘い」みたいなコピーがあったが、それが脱毛の広告である以上、用はうなじもしっかり脱毛しないと男にモテないよということなのだろう。僕は男性なので広告のタ直接的なーゲットとはなっていないわけだがそれでも、なにかと勝手に決めつけてんじゃねーよ、と思う。しかもその決めつけは、いつの間にか暗黙の前提ともなっている。つまり「女性のうなじは脱毛してあるべきで、それに男性は惹かれるのだ」という前提。主語は巨大で述語は随分お粗末な前提だ。そして、そういう暗黙の前提を消費者が理解して初めて、あのコピーは広告として機能するのだ。広告の文脈を理解するのに必要な前提を、「当然のこと」としてうまく有利に底上げしているという意味では、よくできた仕掛けだなあとも思う。

 

脱毛ということ自体には好感も嫌悪もないし、もちろんこれは脱毛の話でも異性の身体の話でもない。しかしとにかく、あの広告は「男性」「女性」といった巨大な単位での十把ひとからげ・それに対する無神経な決めつけが可愛い装飾によってマイルドな体裁をとっただけの、それなりの脅迫文であったように僕には思えるのだ。しかも「女性の身体的特徴が男性から見てどうなのか」という、ジェンダー的に警戒信号なコピーが平気で公共交通機関の車内に貼られているという状況も、またなんとも苦々しいことだ。

広告はときに巨大な力を持つのだから(自分が広告業界の内実を垣間見るようになったので最近ますますそう思う)、その辺はシビアにならないといけないはずなのだ。某発泡酒のCMのようにあからさまにやらかしたやつでなくても、気味の悪い広告は本当にあちこちにある。一体どういうことだと思う。どういう顔をしながら創っているのか見てみたい。

 

とはいえ、こういう内容を男性として書くのはけっこう難しい。しかも自分は社会にも社会学にもジェンダーにも、まだまだものすごく無知だ。だからかなり的外れなことを言っているのかも知れない。

しかし気味の悪さを感じることは、その問題圏に対して無知であることとは別に関係がない。僕はあの広告が嫌だった。とりあえずはそれだけだ。

 

 

文章の練習

その頃は大学内でもテレビ局関係者が「東大生の中で特別に頭のいい人を探しています。ルービックキューブを一瞬で解ける、一瞬で暗算できるなど」

とチラシを配っていたりして、ひょっとしてこの人達学問がなんなのか知らないまま大人になっちゃった人達なのでは、という諦めムードが漂ったりしていた 

@tkmtSo

という結構バズったツイートを遅まきに見つけて、それは酷いなと笑ったのだけれど、ところがなにせ僕自身がもはや学生でも学者でもなんでもなく、「学問とはなにか」などと問われても自分にだってよくわからない、とも思っている。一方で「学問ができること=ルービックキューブを一瞬で解けること」では少なくともなさそうだという確信もある。

ルービックキューブの才能の持ち主は、あるいは引用ツイート前半でいう「頭のいい」人には当てはまるかもしれない。トリュフを一瞬で嗅ぎ分けられる特定の豚さんが「鼻がいい」と形容されるように。けれど頭のいいことと学問的に優れていることは、近いようでずれている。そこをごっちゃにしていては、学問も大学組織もどこまでも実態のないものになってしまいそうで怖い。だからあのツイートも、いいたいことは超わかるのだけれど、前後に少し危ない飛躍があるような気がする。学問はもともと「頭のいい」ことと違って、ボキャブラリーを落とした表現をすれば「かなり頑張らなくてはならない」という必要条件的な特徴があるということを学んだ。たくさん文献を読むとか発表するとか、とにかくいろいろな作業が必要で、所与の才能とかひらめきだけでどうにかなるものではなさそうなのだ。

 

僕自身は哲学専攻だったので、一番身近な学問といえばもちろん哲学だった。哲学は何か特別なものだ、哲学者は何か一般的ではない人だ、という観念はかなり人口に膾炙しており、そのお陰で大学入学時には親にやんわり反対されるなど、やはり風当たりが弱いわけではなかった。

でも例えそれが哲学であっても、実直に真面目に「学問」をしていることは他の分野と少しも変わらない。たくさん勉強したからといって別によくいわれるような変人にもならないし。(いい意味で)変人はまあもともと変人なのだから、それはそれ、これはこれだ。

 「東大生は超やばい天才」「慶應生は口説きマスター」といったイメージが蔓延しているせいで当事者は結構それで苦労したりするのと同じで、哲学の人たちも随分お粗末で適当なイメージがこびりついてしまっているのは可哀想だ(と企業社会にでてからますます感じる)。

 

まあ哲学の話はいい。実は最近、よく仕事で歯科の学会に行く。これが意外にもおもしろくて、自分の医院でこんな症例がありました、みたいなのをパネル展示して不健康そうな口の中の写真が100枚くらい並んでいたり、あっちこっちのブースで歯医者さんが論文を発表したりしている。彼ら彼女らはまた、かなりの勉強熱心、つまり学問熱心なようだ。

それで当たり前だけど、歯科は「治す」という明確な目的がある。だから理論と(治療という)技巧的な部分が強固にリンクしている。哲学はそのあたりのリンクがかなり薄いから、みんなからあいつらよくわからないなーと思われているのかもしれない。歯科(やその他の)学問と違って、「文字の世界から外に出る」ようなアウトプットとしての成果が、わかりにくいのは事実だと思う。でもだからなんだっていうんだ。いろんな形の学問があれば、いろんな形のアウトプットがある。わかりにくいものを馬鹿にしてはいけないです。

 

と思った。

これ、なんの話なんだろうか。今日は少し早めの通勤電車に乗りながら考えた。思うに、すごく文章が下手になってしまった。これはそのリハビリとして書いてみた。やっぱり勉強したい、頭が痛い。低気圧だ。

 

 

「自由に、しかし楽しく」のこと

ブラームス交響曲第3番がたまらなく好きで、多分1日おきくらいに聴いている。ところでこの交響曲、冒頭の F-A(s)-F という音列には、ドイツ語の頭文字としてちょっとした意味がある(らしい)。彼の座右の銘になるとのことだ。それは、

"Frei Aber Froh"

恐らく日本語の定訳は「自由に、しかし楽しく」。いい言葉だなあ。

  

この F-A-F という音列は、ブラームスの楽曲にはたくさん出てくる。で、たしかにいい言葉だけれども、なんかこの接続詞「しかし」がしっくりこない。「自由に、そして楽しく」とかの方が日本語としては自然だと思う。

果たしてこの違和感、日本語訳がよくないから起こるのか、それとも "Frei"-"Froh" を "aber" で繋ぐのは、ドイツ人としてもやっぱり なんか変だなああ という感じがするものなのか、気になってきた。もし後者なら、真面目なイメージのブラームスも案外適当なのかも、となってしまいかねない。

とりあえずぐぐってみると、似たような疑問を持っている方(日本人)はけっこういるようで、似たような記事がインターネット2017に転がっている。やられた。

読んでみると、どの記事も「F.A.E.ソナタ」との関連で書いてある。

F.A.E.ソナタ - Wikipedia←F.A.E.ソナタについてはこれです。

このソナタの F-A-E 音列は、彼の友人ヨアヒムさんの座右の銘にちなんでいるということだ。それが、

"Frei Aber Einsam"

「自由に、しかし孤独に」。いい言葉だなあ。

 

とにかくブラームスはこの "F-A-E" をもじって、"Einsam" の「ミ」を "Froh" の「ファ」に変えたんだそうな。ちょうど音響的にも F-A-F という音列は明るいし、F-A-E はちょっと孤独な雰囲気がしなくもない。前者での Frei はまず F-dur のⅠとしてしかとれないけれど、後者での FreiEinsam の影響で a-moll のⅥに聞こえるからだ。まあそれはどうでもいい。

でもたしかに、"F-A-E" のように「自由に」と「孤独に」を接続詞「しかし」で繋げるのは日本語としてもしっくりくる。「自由に、しかし楽しく」は所詮それのもじりなんだから、多少の違和感には目をつむるべし。という解釈はあり得る。

この「もじり重視説」は、「ドイツ人も F-A-F の "aber" には違和感を持つということ」の消極的論拠にはなりそうだ。でも積極的論拠ではない。あの気難しいブラームスおじさんがそんな適当なことするかなあ、やっぱりこの "aber" は案外自然な語用で、日本語訳の気がきいていないだけではないのかなあ、という疑念はまだ残る。まあ実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

気になるものの、はっきりいってこれ以上真面目に調べるのは面倒くさい。まあとりあえず独和辞典だけ引いてみた。最近はほとんど使うこともなく埃を被っていたので、くしゃみが出た。そうしたら、"aber" の項に突破口(?)が。

aber[...]

①しかし、でも、ところが [...]

②(「しかし」の意味が薄れて)そして、それから、一方

△Der König hatte zwei Sönne, der eine heiß Karl, der andre aber Johann. 

 その王には息子が二人あり、一方はカールでもう一方をヨハンといった 

[...]

ドイツ語は最大の留年直結科目だったくらいなので語法について全然自信がないけれども、 "F-A-F" の aber もこの②で訳したらいい感じにならないだろうか。そうすれば、「自由に、そして楽しく」。よい。"aber" にこんな使い方があったのは初めて知ったけれども、それなら「自由に、そして楽しく」と訳しても極悪な訳というほどではないのではないか。これがありかなしか、実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

結局のところブラームスがどういうつもりだったのかわからないけれども、とにかく "F-A-F" において「しかし」という接続詞が生み出す違和感や屈託みたいなものは、消そうと思えば消すことができること。久しぶりに辞書を引いたらちょっとした成果があったこと。それでなんか少し満足した。

"F-A-F" か "F-A-E" か、選ぶならどちらがよいかと考えると、どちらも魅力的な言葉だが、やはりずっと孤独なのはたまに辛くなりそうなので、前者。