色とりどりの棒

いろいろな棒と思考の記録帳

「自由に、しかし楽しく」のこと

ブラームス交響曲第3番がたまらなく好きで、多分1日おきくらいに聴いている。ところでこの交響曲、冒頭の F-A(s)-F という音列には、ドイツ語の頭文字としてちょっとした意味がある(らしい)。彼の座右の銘になるとのことだ。それは、

"Frei Aber Froh"

恐らく日本語の定訳は「自由に、しかし楽しく」。いい言葉だなあ。

  

この F-A-F という音列は、ブラームスの楽曲にはたくさん出てくる。で、たしかにいい言葉だけれども、なんかこの接続詞「しかし」がしっくりこない。「自由に、そして楽しく」とかの方が日本語としては自然だと思う。

果たしてこの違和感、日本語訳がよくないから起こるのか、それとも "Frei"-"Froh" を "aber" で繋ぐのは、ドイツ人としてもやっぱり なんか変だなああ という感じがするものなのか、気になってきた。もし後者なら、真面目なイメージのブラームスも案外適当なのかも、となってしまいかねない。

とりあえずぐぐってみると、似たような疑問を持っている方(日本人)はけっこういるようで、似たような記事がインターネット2017に転がっている。やられた。

読んでみると、どの記事も「F.A.E.ソナタ」との関連で書いてある。

F.A.E.ソナタ - Wikipedia←F.A.E.ソナタについてはこれです。

このソナタの F-A-E 音列は、彼の友人ヨアヒムさんの座右の銘にちなんでいるということだ。それが、

"Frei Aber Einsam"

「自由に、しかし孤独に」。いい言葉だなあ。

 

とにかくブラームスはこの "F-A-E" をもじって、"Einsam" の「ミ」を "Froh" の「ファ」に変えたんだそうな。ちょうど音響的にも F-A-F という音列は明るいし、F-A-E はちょっと孤独な雰囲気がしなくもない。前者での Frei はまず F-dur のⅠとしてしかとれないけれど、後者での FreiEinsam の影響で a-moll のⅥに聞こえるからだ。まあそれはどうでもいい。

でもたしかに、"F-A-E" のように「自由に」と「孤独に」を接続詞「しかし」で繋げるのは日本語としてもしっくりくる。「自由に、しかし楽しく」は所詮それのもじりなんだから、多少の違和感には目をつむるべし。という解釈はあり得る。

この「もじり重視説」は、「ドイツ人も F-A-F の "aber" には違和感を持つということ」の消極的論拠にはなりそうだ。でも積極的論拠ではない。あの気難しいブラームスおじさんがそんな適当なことするかなあ、やっぱりこの "aber" は案外自然な語用で、日本語訳の気がきいていないだけではないのかなあ、という疑念はまだ残る。まあ実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

気になるものの、はっきりいってこれ以上真面目に調べるのは面倒くさい。まあとりあえず独和辞典だけ引いてみた。最近はほとんど使うこともなく埃を被っていたので、くしゃみが出た。そうしたら、"aber" の項に突破口(?)が。

aber[...]

①しかし、でも、ところが [...]

②(「しかし」の意味が薄れて)そして、それから、一方

△Der König hatte zwei Sönne, der eine heiß Karl, der andre aber Johann. 

 その王には息子が二人あり、一方はカールでもう一方をヨハンといった 

[...]

ドイツ語は最大の留年直結科目だったくらいなので語法について全然自信がないけれども、 "F-A-F" の aber もこの②で訳したらいい感じにならないだろうか。そうすれば、「自由に、そして楽しく」。よい。"aber" にこんな使い方があったのは初めて知ったけれども、それなら「自由に、そして楽しく」と訳しても極悪な訳というほどではないのではないか。これがありかなしか、実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

結局のところブラームスがどういうつもりだったのかわからないけれども、とにかく "F-A-F" において「しかし」という接続詞が生み出す違和感や屈託みたいなものは、消そうと思えば消すことができること。久しぶりに辞書を引いたらちょっとした成果があったこと。それでなんか少し満足した。

"F-A-F" か "F-A-E" か、選ぶならどちらがよいかと考えると、どちらも魅力的な言葉だが、やはりずっと孤独なのはたまに辛くなりそうなので、前者。

 

 

すくずく

つい先ほど、泥沼に嵌まった。 

 

といっても精神の泥沼に嵌まったとかそういうことではなく、物理的世界、埼玉県加須市。農業用水路の横、蛙があわれげにないていて、遠くからのんきな防災無線が聞こえたりしている。そんないい感じの畦道を歩いていた。ところが道が途中から水溜まりになっていたのでこれを避け、やや踏み跡を逸れて右横に足を踏み出したところ、そこはすくずくの泥沼、焦げ茶色の深みになっている。見た目では全くわからなかったので呆気にとられながら、まるでスローモーションのようにゆっくりと深みに嵌まっていった。泥の中は虚無。

誰もいないのに、これはマジやばいやばいやばい、などといいながらそれまでは無事だった左足に体重を移動、その無計画さがさらに災いして左足まで一層粘度の高い泥沼に嵌まってしまったさまは、あほうとしか言いようがなく、もう本当に自分が嫌になった。進退窮まった次の一歩もやはり泥沼で、もはや再起不能となって「詩人になりたい」「水餃子の皮だけたくさん食べたい」などと建設的な思考を完全に放棄した。

 

悲しいことだ。

 

全然関係ないけど、部署内ではどうやら自分が真面目で頭がいい奴、みたいになっていることへの恐怖感がある。最初の数ヵ月で少しうまくやったくらいで、だからなんだというんだ。あほうがあほうをいつまでも隠し通せるはずもなく、いや仮に隠し通せてもそれはそれで釈然としない。人が当たり前にできることがなんとなくできていない、という感覚はいつも自分につきまとい、それのせいでいつかかなり不味いことになるんじゃないかと考えると不安で仕方ない。まあ同じ不味いことならば、誰かにたくさん迷惑のかかる失敗をしてしまうより、ははは、泥沼に嵌まりましたみたいな失敗の方が良いのかも。

今回の施策については、粗利と営業利益が云々かんぬんなので異議あり。再検討を求めます。閑話休題、先ほどすくずくの泥沼に嵌まりました。温かく優しい泥でした。ご確認よろしくお願いします。なんて。本題はどっちだ。

 

嫌だなあ。そうやって変なことはせずに、奢らず、焦らず、真面目にお仕事をするに限る。

 

 

 

鉛筆を力強く握る

紫陽花は綺麗だけれども、ぶわああという感じで一面に咲いているよりも、狭い路地とぼろアパートがあるような街並みに溶け込んでいるのがいい。そんな街中の都電の線路脇とかに咲いていたりすると、なんかいいなあああと思う。梅雨の日は、少し土のついたアスファルトが雨に濡れるあの匂いを、紫陽花の花の匂いと勘違いしてしまいそうになったりする。

昭和30~40年代築、六畳間ふたつくらいのぼろアパートに憧れがあって、実家を出るならそういうところにまずは3年くらい住んでみたい。但しなるべく風通しのいい部屋がいい。天日干しもできた方がいい。それで仕事から帰ったら、ニュースを流し聞きしながら焼きそばでも作って、それから銭湯に行って安めの缶ビールをあけたい。それから蚊取り線香を焚いてその横で本が読みたい。あと都電で通勤してみたい。あとチェコに行きたい。太鼓やりたい。適当な温泉宿で卓球したい。だけれども。

 

この朝、2017年6月15日の朝に決まったことは、オーウェルの『1984年』に喩えてみたり、治安維持法の時代に喩えてみたり、フーコーパノプティコン(よくわかってない)を引用して論じてみたり、やってみればまあいろいろだと思うけれども、重要なのはとにかくこれでまた未来が一段階暗くなってしまったということだ。朝っぱらからこんなニュースだったので、その後一日中肩が重くなってしまった。

あほうみたいに楽しかった学生の四年間、でもこういうやるせなさを何度感じただろうか。朝ごはんを食べながらニュースをつけたら、なんかスーツを着た大人のひとがぎゃーぎゃー揉めて、騒ぎが収まったと思ったらまた世の中がひとつ狭くなっている。いつもいつもいつもいつもいつもいつもそれ。本当になんなんだろう。これからどうなってしまうのだろう。

しかし、その日そのときは鉛筆を握るのも嫌になるほど落ち込むけれども、そのうちいい感じの小説を読んだりいい感じの音楽を聴いているうちに、こういう負の感情というか反発心は形骸化してしまうものだ。

感情が形骸化?「自分は今やるせない気持ちである」という命題的態度は残っているものの、やるせなさのクオリアがない、というか、だいたいそんな感じの状況になるということ。全くやるせないことだ、と考えつつも、鉛筆は普通に握ることができるようになる、というか。だいたいそういうこと。

 

でもそれは悪いことではない。むしろ、いつまでも絶望・虚脱して鉛筆が握れないのではちょっと弱い。一方で、こういう反感や過去のいろんな考えを忘れて、時とともにどうでもよくなってしまうのも弱い。このどちらになってもいけないなと(反省を含め)よく感じるのだけれども、それはなかなか難しいことだ。

こういう難しさに対して、文章を書くことはとても役に立つ。うまい具合に日記を書けば、そのとき感じた「あの鉛筆の握れなさ」さえも、想起させることができると思う。うまい具合の歴史書を読んでいると、その時の空気さえも感じることができるように。理解したことを文字にして保存できるように、感じたこともある程度は保存できると信じたい。

とにかく強さがほしい。強くなって、このやるせなさを忘れないで、いろいろなことを知らなければならない。それで、どんな不都合なことを知っても、常に鉛筆を力強く握っていることが必要。本当に、何もかもいよいよ他人ごとではないのだ。

 

そのあたりをうまくやりたい。

 

 

ひとりごと、宇治拾遺物語へのリンクつき

僕の敬愛する町田康は『きれぎれ』で芥川賞をとっているけれど、その前にも『けものがれ、俺らの猿と』で最終候補まで残っていたことがあるようだ。芥川賞全集の該当巻を借りて後ろの方を読むと、一見して物語展開は支離滅裂、いや十回読んでもやっぱり支離滅裂なこれらの小説に、選考委員である石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけているカオスな風景がみられる。(目取真俊芥川賞をとっているので、やっぱり石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけており、やれやれコンテンツだった。)

 

芥川賞とかなんとか賞だから偉いとか読んでみる価値があるという意識は別に持っていないけれど、なんとなく町田康芥川賞をとるなら『権現の踊り子』とかの方がさもありなんじゃない??と感じる。それかいっそのこと『逆水戸』とかもその系列だと思う。でもこれはちょっと短すぎるのかな。

それともこういうのはまだテーマがはっきりしすぎていて支離滅裂さが足りなくて、つまりなんか病んでいなくて迫力がないということか。だとしたら随分不健康な選考基準だ。

後日補足:すっかり勘違いしていたのですが『権現の踊り子』は芥川賞後の作品だった。これじゃあ理屈があんまり成り立たない、ごめんなさい。

 

選考基準とか評価って、それ自体どういうことなんだろうか。よくわからない。なんであろうと興味があるのは作品自体だ。なんか難しい理由があるわけではないけど、好きな小説でもその解説書とかを真面目に読む気にはならないし、「これはこういうことを伝えたかったのだ」とかどうでもいいかなーと思ってしまう。それは単なるあなたの解釈でしょって感じてしまって、ちゃんとした考証があってもそんなに重要度が理解できない。本当によくないことだ。

最近、町田康宇治拾遺物語を口語訳したのが載っている『日本文学全集8』を遂に買ってしまった。想像を絶する馬鹿馬鹿しさに電車の中でも笑いを堪えることが出来ずにいる。

 

ところで、自分でもいま何を書いているのか全くわかっていない。気持ちがけっこうへとへとだ。へとへとの時はなんでもいいから何か文章を書いてみるといい気がする。だから適当に書いた。しかし、いかんせんスマートフォンで書いたので、目の奥が一層へとへとになった。いみじきことだ。

 

宇治拾遺物語、サンプルで一話読める。

https://kawadeshobo.tumblr.com/post/129340109097/

町田康訳  『宇治拾遺物語』より

「奇怪な鬼に瘤を除去される」

 

これも十分しょうもないけれど、しょうもない下ネタがないだけまだまとも。

 

 

阪神高速14号高架橋

通天閣を抜けて、北側から南へとアーケードに入る。

さっきまで溢れそうなほどいた観光客はうそのように消え、カラオケ付き居酒屋からヴィブラートの利きすぎた下手な歌声がこだまし、どこからともなく不思議なにおいがしてくる。大阪には至るところにアーケードがあるが、山王のアーケードは明らかに雰囲気が違う。少し緊張して、せき立てられるように歩く。しばらく行ってから左に曲がれば、両脇には提灯が並び、桃色の光がぼうっと光っている地帯だ。遂に来てしまった。

一方、大阪阿部野橋駅から西方向に入ろうとすると、それは突如現れる。綿密な都市計画に基づいて最近建てられたのであろうマンション群の坂を下ると、いきなり視界が開ける。なんの前触れもなく、いきなりそこにたどり着いてしまうのだ。あまりの唐突さに、お互いの区画がもう一方の区画を決定的に無視し、存在をなかったことにしているようにさえ思える。

 

花街に入ると、いろいろなものをなかなか直視できない。料亭のひとも、道行くひとも、なにか目があってはいけない気がした。呼びの甘い声(しばらく耳に残りそうだ)、どこからともなく聞こえる15分タイマーの音………自分がここを歩いていても不思議ではなく、いやむしろ充分ここにいてしかるべき部類の者だということを、強く意識させられる。滑稽すぎだ。あの隙のない笑顔、その時どんな気持ちなんだろうか………。

ガンジス河がバラナシの喧騒を静かに見守っていたように、阪神高速14号線の高架橋が花街を見守っている。けれども高速の高架橋は、街の中心を貫きながら街の営みとは全く関係性を持たない。ただ、そこを貫くだけなのだ。高速道路を車で走っているだけでは、下の街がどういう街なのか、まず気づくことはないだろう。

 

それで100mくらい歩いたらなんかへとへとになってしまって、普段ならまず買わない甘い缶コーヒーを買って高架橋の下で飲んだ。それからすぐ帰ってしまった。それで予定どおり。

 

 

初任給や初乗り運賃とはあまり関係のないこと

就職して、毎日7時に起きるようになって、髪の毛を欠かさずいじくりまわして、欠かさず水筒にコーヒーを詰めて、少しはタイピングが早くなって、でも相変わらずmicrosoft officeは僕の言うことを聞かなくて、支給されたiPhoneは使い方がさっぱり分からず笑われて、でも笑った奴はwindowsがさっぱり分かっていなくて、新しいシャツを買って、眼鏡とスーツとリュックも新調したいけれどそれはまだで、まあ人にはけっこう恵まれている。

そういっているうちに初任給などをゲットした。高いようで安く、安いようで高い。確定拠出年金とか将来の費用とか諸手当とか考えていたら、感慨などは一瞬で雲散霧消、残ったのは長すぎるこの後の人生についての淡白な数字の計算なのであった。これから世界がどうなっちゃうのかわからないし、日本も、自分も、どうなっちゃうのかわからない。メメント・モリだ。

 

学生時代のこと。

あの頃はほとんどをお出かけと音楽に使ってしまったので、お金がなさすぎた。だから初乗り運賃130円を節約して何キロも歩いたり、タクシーはひとりなら絶対に使わないと決めていたりした。使ったら昼ごはん抜きとか。あほだったけど、あほにはそれが楽しかったのだ。定期券を使ってただで都心に出られるようになると、それが逆に寂しかった。

今のこと。

結局この前も、天気のいい日曜日に原宿から目黒まで歩いた。目黒川の作った河岸段丘を下って、小さな坂の名前とかを知って、けっこういいコースだ。これで154円の節約。なんだか進歩していない。それでも長い距離をさくさく歩くことは、何か懐かしい行為になってゆく。逆にタクシーをお構いなしに使うことは、何か決定的に自分をおじさんにしてしまう行為だという直感がある。一気に老け込んでしまいそうで怖い。お金はできたのに相変わらずこんなけちくさいことをしているからには、やはり過去の忘れがたさがある。ぼろいリュックの重みとスニーカーから伝わる地面の感触に安心してしまう。

山崎ナオコーラの小説に、昔は自転車にふたり乗りしていた恋人とお互い立派な大人になって再会したところ、疲れたからタクシーを使おうと何度も言われて「しょんぼり」する、という場面がある。寂しい。寂しいな。どうすることもできない時間の流れは、そういう小さなところに最も凝縮されてゆくのかも知れない。

別に学生に戻りたいとかというわけではない。もっと勉強はしたいけど、今も今でよいし、昔は良かった主義は危険だ。だから今は、あほみたいに歩いて、しっかり仕事して、本を読んで、しっかり仕事してお金ためて、やっぱりなぜかあほみたいに歩く。歩きまくった後のビールは最高。

 

そんな日常を過ごすのがしばらくの低すぎる目標です。目標達成に向け日々邁進いたしますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

こっそり映画を観る

映画を観る。映画館にはよっぽど興味があるやつがないとあまり行かない。じゃあどこで観るんだというと、amazon studentの割引が適用されるうちに登録して映画見放題した方がいいぞといわれ、そうかっていうんで課金したということだ。だから映画を観るといってもラップトップPCで観るだけ。ヘッドホンが高級品なので音の迫力があるわりに、映像はやたらとこぢんまりしている。

何を観るかといえばいろいろなのだが、新しく観るようになったのは、正直にいうとレイティングのあるR15+やR18+の映画。「愛の渦」とか「海を感じる時」とかそういうやつ。小心者なので映画館で観るのは気が引けるし、DVDとテレビで観るのはひとりであってもそわそわしてしまう。だけど、こぢんまりしたPCの画面ならなんかできてしまうものだ。

過去を思い返せば、年齢制限のある映画はR15+を15歳になってすぐに友達と観に行ったことがあった。大人ぶって調子に乗っていたのだ。しかし折角観には行ったのだが、映画の内容はただただ暴力・強姦・殺人といった感じで、全然よい印象はない。つまらなかった。そういうわけで、それ以来どこかに年齢制限のある映画に対する蔑みに似た感情があり、そんなくだらないものをわざわざ観ようなんて思わなかったというのもある。それから約7年が経った今はその態度をちょっと反省して、そういう過激表現系(?)の映画ももう一度観てみようと思い至った。

改めて観てみると、こういう映画の魅力は往々にして余計な無害化というか毒抜きをされることがないことかも知れないと思った(うまい表現がみつからない)。製作者が表現したいそのままに近いものを、万人に観られることへの自主規制とかに走ることなく表現できる、という背景があるのかな??とか考えてみる。(年齢制限がある映画なんて観ないという成人もいるだろうし、鑑賞者の篩として制限は機能するはず)。反社会的なもの、例えば露骨な性的表現や暴力が含まれる作品であっても、予め年齢制限がかかっているんだから多少はいいでしょ、という感じで、それを「盾」として比較的自由に表現できるという点で、制限も一役買っているのかもと思った。まあ制限のせいで不必要に過激化して展開を損ねることが半分以上な気もする。とにかくそれとは関係なく、露骨な生死のことや、露骨な性のことを含めて展開する物語というのは、むしろ現実の中にある物語の感覚や、社会的に隠されるべき興味にも近しいだろうし、それとは反対に、当たり障りのない無害化された世界の中で「濃密な人間ドラマ」的なものを無理に繰り広げれようとすれば、うわっなんかわざとらしいなーーとか、わかってるようなこといっちゃってちゃちいなーーとか、感じてしまう気がする。このことは別に年齢制限と直接は関係ないけど、年齢制限のある映画を複数観ることでこんな感覚が出来上がってきた。あれれ。

僕は表現の大胆さや過激さ自体にはそんなによさを感じられない。だからド派手な暴力・強姦などをやってのける極悪人をド派手にぶっ殺す、ということに主眼をおいているような映画を好きにはなれないし、15歳の時にみたあの映画は22歳の今観てもつまらないのだろう。嫌悪感というより、しばらく観ていると話が単調すぎて飽きてしまう。だからR15+やR18+の映画や、それに準ずるような映画が全て自分にとって面白いものであるとは全くいえなそうだし、でも一方でこれはかなり好きだな!!!とか、つまらなくてもプロットやカメラワークとかでなるほどなーー思えるもの(ど素人ですが)も発掘できたということ。その点では、最近観るものは気に入るかどうかの振れ幅が大きすぎて笑える。つまらない映画に出会えるのも、ある意味では見放題の特権だろう。

いつものことながら、なんかまとまらない。鑑賞に制限があること自体の潜在的な危険さも忘れてはいけないし。それに、もっと具体的にいろいろ書いてみたかったんだけど、露骨な映画の内容に言及する勇気がなくて、結局抽象的にまとめてしまいました。情けないね。

まあとにかく、僕は今のところ生きています。