色とりどりの棒

わかりたい

『深い河』は目的論的すぎると思う

 

https://newmasterpiece.bandcamp.com/album/the-trip-that-nothing-learns

 

最近再び、生活の中のインド成分が濃くなってきておる。インドカレー屋に行く頻度が上がり、自分でもナンを作ろうとして焦がして失敗、インド映画を何本か観た。もちろん王も称えた。

その一環で、遠藤周作の『深い河』を読んだ。バラナシとガンジス河の物語だ。

 

『深い河』を読んだことがある人は、どういう感想を抱いただろうか。僕は全く納得いかなかった。

大変ざっくりと話の内容をまとめると、日本人たちがバラナシへ向かうツアー旅行に参加する。彼らはそれぞれ、過去に苦悩や特別な感情を残してきてしまった。彼らは過去に、愛妻を失ったり、戦争で傷を負ったり、特に何というわけではないけどもやもやした感情を抱いたりした。彼らがガンジスのほとりに立つとき、その心象は変容し、或いは解決してゆく………というのが大体のあらすじだ。

 

しかしまず気になったのは、それぞれ「○○の場合」という章で語られる主要人物(=複雑な内面を持った人物)は、ただ一人を除き男性、それもほぼ中高年男性であることだ。

ツアーに参加するモブキャラのオバサンたちは、インドの汚さに文句をたれまくり、買い物に右往左往するばかりでガンジスに近づこうとさえしない。内面のない浅薄な人物たちだ。準モブキャラの新婚若夫婦は、夫は強烈な構図を撮ることしか頭にない身勝手な写真家の卵という人格で、最後は身勝手すぎてガンジスの河岸をインド人につまみ出される。妻に至っては新婚旅行はヨーロッパがよかったと言い続けるだけで「インドの魅力」をわかろうともしない。

 

この書き分けには女性蔑視的なものも感じてしまうのだが、まあそれは置いておくとして、「内面のある人物」がガンジスから何かを享受しているのと対照的に、「浅薄な人物」がガンジスから拒絶されているような書き方は、僕がバラナシという街に行った印象から程遠いものだった。実際のガンジスのガートは、人間に内面もなにも気にしていられるものではなく、巡礼者、詐欺師、アホ外国人旅行者、牛、犬、汚物、死体、洗濯物、軍人、凡人、全ている。だからこそあそこは凄いのに。あそこにいる詐欺師にもアホにも死体にも、やはりなにか深い内面があるかも知れないし、そうと見せかけてやはり何もないかも知れない。そこに凄みがある。

 

 

例えばマニカルカーガートは、有名な露天火葬場だ。死体が運ばれてきて、目の前で焼かれる。やはりそれは衝撃的な風景だ。バラナシを描いた作品でこの場所が登場しないことはほぼないのではないか。『深い河』でも重要な意味を持つ場所だ。

そのマニカルカーガートはバラナシの中でも特に混沌としている。遠藤周作はその混沌の中に何か宗教的な畏怖を感じて、それがあの作品の骨格になったのかもしれないが、畏怖しているどころではないくらい混沌としている。『深い河』の世界観とは違い、そこには「内面のない人物」も「浅薄な人物」も共存していると思う。

僕があそこで火葬を眺めていたときは、喪主の息子らしき人が遺体が首尾よく燃えだしたことを確認すると暇そうにスマホをいじりだして、わりと衝撃を受けた。まぁそんなもんかな~、とも思った。その後いかさまガイドに終始つきまとわれて大変だった。前日ハッパをやったという日本人が「めっちゃ二日酔いです……」と話しかけてきた。彼はガンジスに直接ゲロしたらしい。最低だけど笑える。かと思えばちゃんと、真剣に祈りを捧げたり、家族の死を悼んで泣く人もいる。わけがわからない。

ガンジスは、敬虔なヒンドゥー教徒も、ゲロ吐いてる日本人も受け入れているのだ。ゲロ日本人は思慮の浅さの極限のような存在だが、ちゃんと神聖なるガンジスに存在している。

 

『深い河』のガンジスは、遠藤周作の描きたかったことに寄り添いすぎている。そのガンジスは、目的論的すぎる。

遠藤周作は、自分の中にあるキリスト教的な問題意識が強すぎて、街への眼差しは色眼鏡を通しすぎていたのではないか?彼がバラナシに行くには事前から明確な理由がありすぎて、極端にいえばそれに沿った眼差ししか持ち得なかったのではないか?『深い河』は、彼がガンジスを見る前に大方筋が決まっていたのではないか?実際のガンジスは、それを風景で彩る添え物に過ぎなかったのではないか?

 

なんでこんな長文になってしまったのか、敷衍すれば結局のところ、旅って何のためにやっているのだっけということの認識について、遠藤周作とは全然意見が合わなかったということな気がする。

僕は、旅は必ずしも、予め心の中に用意した空白をパズルのピースのように嵌めて埋めるという行為だとは思わない。心に空白がなくても、ちゃんと旅はできる(あってもできる)。

空白を持つ人が旅でそれを補完できるのならそれでよいけれども、それが唯一の旅の正解ではない。旅に出たことで逆に空白地帯ができるかもしれないし、何の準備もなく知らない場所に行って結局何も得られないこともあるだろう。それの何が間違っているのか。インドまで来て買い物に奔走するオバサンの何が間違っているのか。それを見下す権利が誰にあるというのか。

 

仮に僕が『深い河』の登場人物なら、さしずめ思慮の浅い写真家の卵というところだろう。小説では思慮が浅すぎてインド人にリンチされそうになったところをうまく逃げて反省もしないというクソ野郎の人格だが、クソ野郎もクソ野郎なりの旅をして、深い心の空白を抱えた人と同等にガンジスに立つ権利がある(迷惑をかけてはいけないけれども)。神聖でありながらクソ野郎にもその権利を与えるからこそ、逆説的に、遠藤周作も僕もガンジスに惹かれるのではないかと思った。

 

ガンジスについて考えていたら腹が痛くなってきた。

 

 

変な時間に旅を始める

 

 

旅の面白さはいろいろあり、ひとつに決めたり定義する必要は全くないけど、「何気なく非日常を味わうことができる」のが大きいと感じる。

しかし、ただ非日常を味わうだけならより強烈である方がよいということになってしまい、プロレス観戦、バンジージャンプ等々、もっと直裁的な非日常もあるが旅の場合はそうではない。あくまで何気ないのが面白い。

遠い街に行ってスーパーの食料品売り場に行くとか。バス乗り場を探すとか、列車を待つとか、散歩するとか。

 

でも大袈裟にいえば、旅の中で最も何気ない非日常っぽい瞬間は、出発の時間であるかも知れない。旅を始めるということは、毎日飽きるほど見ている景色の意味合いをがらっと変えてくれる。普段の景色、学校や会社と家とを結ぶだけ道や線路が、遠い街へ通じるものとして意識に立ち現れる。それは何ともいえずわくわくすることだ。

 

そう考えて(もっと合理的な理由もあり)、最近凝っているのが「変な時間に出発する」ということだ。夜中、早朝、通勤ラッシュなど。

 

例えばこんなことをした。

去年、ちょっとしたタイミングで木曜から4連休があり、伊豆諸島に行った。前日、普通の水曜に仕事用の鞄の他に60Lのリュックを担いで出勤し、18時頃に表参道で仕事を終える。外苑の銀杏並木を横目に青山一丁目まで歩き、平日の帰宅ラッシュの大江戸線で大門まで行く。22時頃に竹芝桟橋より八丈島へ行く夜行船に乗った。ほんの数時間前には普通に仕事をしていたのに、今は残業で光るビルや慌ただしく車が行き交うレインボーブリッチを横目に甲板でだらだらとカップ麺&ビール、という状況がただただ面白かった。「明日起きたら八丈島にいる」という状況自体が嬉しかったのだ(翌日には大嵐で酷い目に遭うことは、この時まだ知らない)。

この時、もちろん夜行船が主な思い出となるわけだけれど、その前の大江戸線もなぜか忘れられない。飽き飽きした日常とは違う意味合いとしての、離島へ繋がる存在としての大江戸線がそこにはある。

他にも平日の帰宅者で大混雑の浅草線と京成を終点まで乗って成田空港からベトナムに飛んだり、真夜中に家を出て上野駅の漫画喫茶に泊まり、日の出前の東北本線始発で北海道まで各駅停車で行ったりした。どれも変な時間の出発だった。

 

変な時間の街は、なんとなく普段と違う姿を見せてくれる。

終電で出発すれば、乗り慣れた通勤電車で酒臭いサラリーマンが(それは普段の僕でもあるのだが)あまりにもくだらない話で盛り上がっているし、始発で出れば、謎めいた感じのバンドマンがギターを担いだまま座って寝ていたりする。面白い。笑う。旅の始まりに相応しい景色だ。

帰宅ラッシュの時間に出れば、それこそ普段と何も変わりはない窮屈な東京だけど、何か特別な感じがする。さっきまで自分も普通に働いていた東京の景色が、不思議に違って見えてしまう。

 

行楽シーズンのゴールデンタイムに出発するのも楽しいものだ。でも変な時間に出てみると、ありきたりの日常が変質してゆく。ときには「本当に」違う姿を見せてくれるし、そうでなくとも、旅行者の視点では十分に新鮮な景色に変わるからだ。それを噛み締めたい。

 

 

恐怖のバラエティー

 

 

帰宅が22時を回るような日が多くなり、輪をかけてテレビを見なくなってしまった。帰るとちょうど「報道ステーション」がついているくらいだ。

それでこの前の夜、ちょっと謎を秘めた感じのラーメン屋に入ったら、なんかのバラエティー番組がついていた。そして驚愕した。

その内容があまりにも酷かったからだ。

 

趣味と称して公の迷惑になるようなことをする者、違法物品を国内に持ち込もうとする者など(=わるもの)を公務員など(=正義)が果敢に取り締まってゆく。だいたいそんな内容で、まあ何も面白くなかったのだが、最後に極めつけの恐怖があった。

ビザなし滞在の中国人女性3人を取り締まる入国管理官の話だ。朝、女性らが普段通り自分のアパートの扉を開けた瞬間、屈強な入国管理官たちが仁王立ちしている (しかもテレビカメラまでいる)。彼らは住人に、パスポートとビザを見せろと威圧的に問い詰める。その結果不法滞在とわかった1人はその場で施設へ連行、最後に「法に従わない者に居場所はないのだ!」とかなんとかやたら勇ましいナレーションがはいって、番組は締め括られた。

それをバラエティーとして取り上げる企画自体が最悪だと思うのだが、さらに恐ろしいのは、残りの2人は結局のところ不法滞在者ではなかったということだ。ナレーションでほんの一瞬、その事実が告げられた。

驚愕した。

 

この国では外国人は、合法的に普通に暮らしていても、ある日突然玄関に威圧的な役人が来て脅されなければいけないのか。しかもそれを全国の電波で放送され晒し者にならなければいけないのか。そしてそれを喜ぶ者が、この番組の存続に十分なほど存在するということなのだろうか。

もしこんな不正確で恐ろしい取締がしょっちゅう起こっており、こんなくだらない公開処刑趣味(しかも冤罪)の番組が毎週のように放送され続けるのだとしたら、日本にいる外国人は早く逃げた方がいいのかもしれない。もし自分が晒される立場だったら、と考えると恐ろしくてたまらない。

 

そして不思議なのは、ああいう番組をみて喜びそうな人というのが、身の回りにそんなに思いつかないことだ。そうだとすると、僕の全く知らないような世界に全く価値観の違うコミュニティがあって そこが電波を掌握しているのか、それとも僕が身の回りの人を全く誤解していているのか、どちらかということになる。

まあ、恐らくどちらもある程度は正しいような気がする。

狭隘な集団心と義侠心、日本人であることの優越感、そんな錆び付いた感覚丸出しの残念さを感じてしまう番組だった。ただ、もはやその感覚がマジョリティというわけでは別になく、そのテレビ局やら広告代理店やらの一部のおっさんズ(等)の価値観でしかないのかもしれない。それが肌感覚だ。知らないけど。僕もそろそろおっさんズに片足を踏み入れてきたので、あんな無残なことにならないように、マジで気をつけたい。

 

などと一通りプンプン怒った結果、一方で超楽しい番組もあることは承知しつつ、暇なときに敢えてテレビを見なくてもいいかなぁ……という気持ちに拍車がかかってしまった。

 

 

(台風で)「経験すること」を経験したい

 

 

今日(2018年8月8日)の東京には南から台風が接近しており、朝から結構な荒れ模様でテンションが上がっている。今後の進路が気になるので気象庁のHPを見てみたところ、今回の台風14号は「サンサン」という名前なのだそうだ。可愛い。

 

何を今更そんな当たり前のことを、と思われたら申し訳ないのだけど、台風の名前ってどのように決まるのか知っていますか?僕は知らなかった。

気象庁のHP(https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-5.html  閲覧日は2018/8/8) にこんな説明がある。

 

台風の番号の付け方と命名の方法

 

[略]

 台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていましたが、北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本含む14カ国等が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)を付けることになりました。

 平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は25.6個ですので、おおむね5年間で台風の名前が一巡することになります。

 なお、台風の名前は繰り返して使用されますが、大きな災害をもたらした台風などは、台風委員会加盟国からの要請を受けて、その名前を以後の台風に使用しないように変更することがあります。また、発達した熱帯低気圧が東経180度より東などの領域から北西太平洋または南シナ海の領域に移動して台風になった場合には、各領域を担当する気象機関によって既に付けられた名前を継続して使用します。[略]

 

知らなかった。

台風の名前は、規則正しく循環していたのだ!知らなさすぎた。それから、大きな災害をもたらした台風はその名前を封印されるというのも知らなかった。国家を滅茶苦茶にした暴君が、その死後は二度とその名前を口にされない……的なものなのか。

 

そして、その名前も、このようにいろいろで面白い。(上記のHPを編集してみたけど見にくかった)

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■日本

日本由来の名前は「ヤギ」「うさぎ」など星座で統一している模様だ。まあ普通といえば普通だが、''Hurricane うさぎ is very powerful and terrific one.'' などという英語報道を想像したら、ちょっとじわった。

 

北朝鮮

北朝鮮由来の名前は(現地語で)「ひばり」「かもめ」「つばさ」など、どれも台風とは思えない牧歌的な雰囲気だ。なぜか国鉄特急の名前とよく被っている。

 

■香港

32番のMan-yiは「海峡(現在は貯水池)の名前」らしい。悲しい。貯水池にしないでほしかった。それにしても、香港由来の名前は意味欄が説明的なものが多い。香港担当の人は何かと説明的な人間だったのではないかと思う。

 

■余計な心配をする

37番の「6月」が8月に来る、97番の「徘徊」がストレートに通過してゆくなどという、矛盾した事態が起こりかねない。一体、なぜそんな命名をしたのか疑問だ。

 

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こんな感じで、台風の名前なんかで思いの外楽しむことができたのだが、なんといっても強烈なのはフィリピン由来のものだった。「速い」「野生の牛」「むち打つこと」「鋭さ」「鋭い刃先」などカテゴリも品詞もまるで統一感がないため、コンテンツが大変渋滞している。

 

特に38番の「経験すること」という命名は素晴らしい。どうしてこの名前になったのか、まるで想像できないところがよい。それに、形而上学的な雰囲気さえ漂っている。こんな名前だと、「経験すること による経験したことのないような土砂災害に警戒してください」などという言明が生まれかねない。

 

ところで、僕は 経験すること を経験したことがあるのだろうか。台風140の名前はおよそ5年で1周するのだそうだから、制度の始まった平成12年から発生した 経験すること は概算で3~4個。関東を通過する台風が仮に10個に1個程度だとして、僕が 経験すること を経験した確率は30~40%ということになる。微妙だ。

こうなると俄然、経験したい。そして運よく台風の目が通ったら、「これが 経験すること の中心か!」と叫びたい。突如現れた哲学的な青空を仰ぎ、不気味なほど心地よい風に吹かれながら、「経験」という難題の本質を悟るのだ……………。

 

おわり。たわ言は以上です。

 

 

月曜日からヤビツ峠

 

どうでもいい前段

何でもない月曜日を休みにしたはいいが、遊んでくれる人もいなそうなので10時まで寝てからピアノを弾いてみたりしたのだけど、13時頃には滅茶苦茶に暇だな以外の感情が消滅し、仕方ないのでツイッターを見たら、水道法が改正されて日本の上水が危ないらしいというのを思い出し、上水が駄目ならやはり美味しい湧水しかないので、自転車で丹沢に美味しい湧水を捜しに行こうと思い立った。

「丹沢で自転車といえばヤビツ峠があるな……」と考えだしたのは輪行の電車の中だ。これまでいろいろな峠に登ってみたけど、神奈川県に住んでいながらヤビツには登ったことがない。あそこはその知名度の故、僕のような運動能力の低い人間が休日に行くと、寂しい峠道のくせに交通量も多く、ガチ勢の自転車にも抜かれて、ものすごく精神的ダメージがでかいという。気が向かなかったのだ。

運動のできない特に男子は、よっぽどいい環境にいない限り、大抵は中学くらいまでそのことで苦労し、憂き目を見ることになる。僕は短距離走は人並みに走ることができたけど、球技の強烈な下手さと持久力のなさが (さらに悪いことには、文化部、鉄道おたく、背の順では先頭か2番目だったことも) 災いし、半ば必然的に青白い小中学生時代を過ごした。運動ができないことは、やはり大変な問題だった。大学で自転車を買ってからは、速さを気にしない、疲れたらすぐ休む、誰にも迷惑をかけない、という全く成長しない代わりに気負いもしない自転車の乗り方をして、それは結構楽しいことだった。運動は楽しい。でも中学生までの後遺症があるので、誰かと競争したり極限まで追い込んだりするのはちょっと嫌だ。

しかし、平日ならヤビツ峠といえども誰もいないのではないだろうか?誰もいないのならタイムアタックの真似事をして、仮に途中で降参しても、別に恥ずかしくないのでは?と思った。

そう思ったので、登ってみた。秦野駅に着く頃には、そんな思考になっていた。

 

本題

秦野駅からほんの数分走ると、名古木という名前の交差点があり、そこがヤビツ峠の始まりといわれている。ストップウォッチをセットして、いざ出発だ。未知数だけど、目標は50分にした。次に自転車から降りるときは標高761m、ヤビツの頂点にいるのだと考えると、峠好きとしては結構高まる。

と意気込んだが幸先が悪く、スタートから1kmも離れない街中で、防災頭巾を持った小学生の集団・道路に水を撒くおばちゃん・信号などに道を阻まれる。注意が必要だ。そして前半1/3くらいを占める街中の区間は、心を折るのに十分な斜度があるストレート区間でもある。早歩きくらいの速さでなんとか進む。15分くらいかけてなんとか蓑毛バス停を過ぎる。

すると道は森林の中に突入し、雰囲気はいよいよ峠らしくなる。ここは斜度が落ちるので何枚か残して無理なく進める。眼下の市街がどんどん小さくなり、遠くに相模湾まで見渡せる。車の気配はなくなり、代わりにホトトギスの声が聞こえる。楽しい。随分たくさんのカーブを進むと、やがて展望台がある。ここまで35分くらいかかった。20分で着く人もいるらしいけど最早悔しくもない。

 展望台を過ぎると、雲の中に突入した。右も左も前も後も真っ白で何も見えない。ホトトギスの代わりに悲しげな虫の声が聞こえる。どこからともなく獣のにおいがし、暗い山中にひとりでいることが怖くなってきた。なぜか探偵社の古い看板があり、それがまた不気味なのだが、間もなく霧の中に突然頂上が現れてゴールだった。目標には届かず54分で着いた。街中の区間で力を使わずに、後半に体力を残しておけばもっと早く着いたかも知れない。平日に来た甲斐があり誰もいなかったので、ショパン英雄ポロネーズを熱唱した。日光と無縁の暗い峠はかなり不気味で、熱唱はその不気味さへの対抗策だ。

 

麓に降りてから、途中の展望台あたりで自殺者が見つかったことがあるらしいと知った。そうだ、そういえば湧水を全然捜していない。次は真面目に捜そうと思う。美味しい湧水でうどんを造りたい。

 

 

2018/5/7 (題名思いつかない)

 

最近賑わっているジェンダーセクシャリティ関連の問題について、強く思うことは一応あるのだけど、思いつく限り大抵の主義主張・ケーススタディ的なものはインターネット2018に既にたくさん転がっており、無知な僕は今のところそれに賛成するとか反対するということしかできず、独自の意見やその根拠となる事例として雄弁するに値するものは結局のところ持ち合わせていないのだということを痛感してしまう。勉強不足だ。

それから自分は性的指向が女性であるような男性(心理的にも生物学的にも)、といういわゆる性的マジョリティなので、その立場から言うことができることは何なのかということを考え出すと、それはそれでとても難しい問題のように見える。

例えば、自分は男性が女性にするようなセクハラも痴漢も当然受けたことがないので (痴漢自体は高校生のときに経験したことがあるのですが……)、それがどれだけ恐ろしいものなのか (質的に) わかるはずもなかろうといわれてしまうと、たしかに。本当にその通りでしかない。ただ、違う立場におかれている人のことを質的に一人称的にはわからないとしても、言語的に命題的にはわかることができるというのがヒトの長所でもある。対象となる経験が自分にないということは、それについて思考を停止する理由にはならないはずだ。仮にも自分に都合が悪いからといってわからないことにする、というのはなんというか信条に反するから駄目だ (わかりはもっと高尚なのじゃ)。

そんなわけで、わからないから仕方ないで済まさないことだ。と思った。

 

 

いろいろな事件などがあって、にわかに盛り上がっているこの問題だけど、それでも男女に関係なく「結局過激なフェミニストが騒いでいるだけでは?」などという意見があちこちに転がっている。自分は加害者になったことは一度もないから大丈夫・この国の構造がそうなんだから多少は我慢しろ (そんな~!) 云々、いろいろいう人もいる。

ただ、この話に「関係ない」は誰であれ通用しないはずだ。この話のセクシャルな部分は確かに個人の問題かもしれないが、ジェンダー的な部分は言葉の定義上、共有されるべき社会全体の問題なのだ。関係ない人なんてひとりもいないはずだ。

例えば、「■■は~~という問題を起こした」というような個別事例は確かに私自身の問題ではないが、そういうことが起こってしまう背景にあるジェンダー的な不平等は私たち自身の問題でしかあり得ないのじゃないかなということです。

これまではセクシャリティの課題・ジェンダーの課題は語られる領域が少しずれていたように思う。でも当然そのふたつは完全に分けて論じることなんてできるはずがなくて、それが今やっと融合してきたということなんじゃないかな。

それに、賑わってきたこの話を「自分には関係ない」で済ますのはもったいないとも思う。これまで何十年何百年も続いてきた旧弊な構造を、個人の発信がなんとか壊そうとしているのだ。こういう動きを性差別の話で留めておくのは惜しい。他にもぶち壊さないといけないものがあるはずだ (metooを叩いている暇があったら、逆にもっと便乗して自分の文句もいっちゃえばいいのに……という気がする)。性差関係なく、半端なく旧弊なものに苦しめられているのはあるんじゃないかと思うのですが。残業やばすぎーーとかそういうやつでも。なんでも。

そんなわけで、自分には関係ないで済まさないこと。と思った。

 

少しがっかりするようなことがあって、長々と書いてしまったのでした。がっかりしたよ………。

 

 

 

多摩川のこと

 

自分は多摩のにんげんという意識がなんとなくあるので、そこを流れる川にも愛着がある。多摩川多摩地域を北西から南東へと流れる川で、やはり街の中を流れているイメージが強いけど、その源流は山梨県の山奥で、流域の半分くらいは山中の渓流なのだ。それに「街」のイメージが強い南側も、多摩丘陵の複雑な地形に開発が阻まれて、実は秘境みたいなところが随所に隠れいているのが面白い。家から数キロの範囲でも、まだ たけのこ狩りができる場所 や 蛍が自生している場所 や 探検しないといけない場所 が残っている。

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とにかくそんな立派な多摩川だ。鉄道(私鉄)が鉄橋で多摩川を渡る際には、しばしば駅名に「多摩川」が付く。みんな今から多摩川を渡りますよ、と一度宣言してから渡っている。えらい。具体的には、京王相模原線の京王多摩川小田急小田原線和泉多摩川東急田園都市線二子玉川東急東横線多摩川

……と列挙すると、東急東横線はなんなんだよ、と思う。他の路線は「自分にとっての多摩川は結局これなんですよね。」という自意識をしっかり持って、「○○多摩川」という駅名としているというのに、東横線だけただの「多摩川」とはなんだ。別にあなただけの多摩川ではないのだ、謙遜が足りない。

それから東急にはもうひとつ文句をいいたい。多摩川(駅)から蒲田を結ぶ路線を「多摩川線」と名づけるのは横柄だ。全長138キロもある多摩川流域のうち、たった5.6キロしか並走しないくせにでっかく出たな、と思う。仮に「多摩川線」という名前の路線があるなら、それはもっと川に長く寄り添う、南武線青梅線の方が相応しいように思う。

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多摩川の河口から羽村堰まではサイクリングロードがあって、天気がよければそこを のしぼう (という名前のロードバイク) で走る。サイクリングロードは信号がないから疲れないし、車がないから危なくないし、季節によってはピクニックしている人などもいるから楽しい。檜原に行くにも、奥武蔵や秩父に行くにも、23区に行くにもまずは多摩川に沿って走る。

大学に行くにも、長期休暇で定期券が切れるとよく多摩川沿いに走った。山に登りたくても、海に行きたくても走った。必要に迫られて真夜中に半べそで走ったりもした (あろうことか必要に迫られたときには酒を飲んでしまって、車を運転できなかった)。別に必要がなくてもへらへらして走った。

とにかく、ずいぶんたくさん多摩川を走った。本当にいろいろな場面で、そこに多摩川の景色があったように思う。 

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そういうわけで、この川が結構好きだ。多摩川は奥深い。えらい。昔は汚染が酷かったが、今では中流域でさえ鮎がいるほど綺麗になったらしい。鮎は本当にうまい。それとは関係ないけど、東急多摩川線も大好きだ。駅がみなローカルな感じでよい。特に年代物のベンチが各駅に残っていて、それがとてもよい。

多摩川サイクリングロード、走ってみてください。多摩川線にも、乗ってみてください。よろしくお願いします。おわり。