色とりどりの棒

いろいろな棒と思考の記録帳

雄山一

 

三宅島のおっさんと火山の話。

 

11月、離島への船旅がしたくなって、オフィスにでかいリュックを持ち込んで、仕事が終わったら竹芝桟橋へと直行、三宅島・御蔵島八丈島へ向かう夜行船に乗り込んだ。翌朝には八丈島にいる。はずだったのだが。

その日の伊豆諸島は嵐。船は揺れまくるし、デッキに出れば暴風で歩くこともままならない。そんなわけで真夜中に三宅島に寄港した後、4時間くらいかけて八丈島に向かったものの、着岸が難しいとのことで遂に引き返し、また4時間かけて三宅島に戻ってきてしまった。揺れる揺れる、全く無為な8時間の浪費。この不確実さと荒れた海に対する無力感も、離島への船旅の醍醐味と思わなければならないようだ。

 

ところで、なぜ同じ気象条件なのに三宅島にだけは着岸できたのか。それはどうやら、波の向きによって、嵐の中でも着岸できる港の方角というのがあるかららしい。例えば南の風なら、波の影響が少ない北向の港は強い、とか(そんなに単純ではないだろうけど)。

では、それぞれの島に港は何ヵ所あるのか。

御蔵島は北(御蔵島港)に1箇所。八丈島は北東(底土港)・南西(八重根港)に2箇所。対して、三宅島には東(三池港)・南西(錆ヶ浜港)・北西(伊ヶ谷港)と3箇所ある。三宅島の場合、この3つのうちどれか2つが駄目でも、どれか1つが使えれば良いので、着岸率が上がるというわけだ。

七島の中心地である八丈町より、人口も少ないこの三宅村に、大型貨客船が着岸できる港が多く整備されているというのは、少し不思議なことだとも思った。

 

 

さて長大な前提となったが、三宅島を隅々まで案内してくれたおっさんが、この港の多さの理由をも語ってくれた。おっさん曰く、理由は雄山の噴火だった。間接的には、だけれど。 

雄山は三宅島の中央に聳える活火山で、20年ほどの周期で内部にマグマを溜め込んでは噴火を繰り返しているらしい。最近は1983年と2000年に火を吹いた(僕も2000年の噴火はなんとなく覚えている)。

その度に、島は滅茶苦茶になった。

1983年噴火では集落に溶岩がなだれ込んで学校が全部埋もれた。その赤黒い溶岩の上を歩くことができる。2000年噴火では何年間も島外避難を強いられ、泥流が神社を埋め尽くし、有毒ガスで木はみな立ち枯れた。それらもまた、露骨に姿を留めている。

 

こういう荒々しい島なので、島民はさぞ辛いだろう、可哀想だ、と思ってしまう。だが、そういう本土民の「可哀想だ」のおかげで三宅島の経済は回っているのだ、とおっさんは話す。

例えば港が八丈島より多いのも、噴火の度に国や都からの復興予算がつくかららしいのだ。それから噴火があると、消費者の心理が同情に傾くことで物産もよく売れた。公共施設も建て替えられた。島の経済は、間接的には噴火で成り立っているというのがおっさんの意見である。

「だから、三宅島の経済が行き詰まってきたら、雄山に一発ドーンといってほしいんだよ。次は東京オリンピックが終わったあたりがいいなワハハハ」とのことだ。

 

全くなんちゅうしたたかさかと思う。

 

どうやらこんなに飄々としていられるのは、最近の噴火では(奇跡的に)ひとりの死者もだしていないからのようだ。それでも雄山にはかなり生活を乱されているはずなのに。

おっさんからは「島民として雄山と共に生きる」という気概みたいなものも感じたが、そこに復興予算や同情心理をあてこんでいるという、あまりにも現実的すぎる要素が加えられために、その気概は全く綺麗事ではなくなっていた。いやしかし、その分かえって凄味のある気概がじわりと伝わる。

山への敬意、山への畏れ、それから山の災さえもをしたたかに利用すること。全部ごちゃまぜになって味わい深い。

こういう感覚をどう思うかはひとそれぞれだと思うけれど、僕はそのしたたかさを格好良いと感じる。

もちろん、それを自然災害の被災者一般へと敷衍して捉えるのは違う。これは被災者の心理の話などでは決してなくて、三宅島の島民の話でも決してなくて、一人のおっさんについて僕が感じたことの話だ。ただ、そのおっさんは滅茶苦茶に強い奴だった。

 こういう考えは、やはり現地に行かないと聞けないのではないか。そう思うと、三宅島に行って良かった。

 

東京へ帰る際、おっさんは港まで車を出してくれた。そうして着いた港の待合室には、本土のロータリークラブが建てた「滅私奉公」みたい文字を刻んだでかい碑がある。いつだかの噴火の際、ボランティアに来た記念碑だった。

僕はそれを、端的に趣味が悪いと思った。島民はどういう目でそれを見るのだろうか。三宅島の焼酎で酔った頭で考えてみる。

 

三宅島の焼酎は、名を「雄山一」という。

雄山はすごい山だ。おっさんはすごい奴だ。

 

 

脱毛脅迫

 

秋はよい季節だが、今年秋になってよかったことのひとつは、夏が終わって某脱毛サロンの広告がめっきり減ったことかも知れない。あの広告、かなり怖かったと僕は思います。

 

例の広告には「男性はうなじに弱い、女性はうなじに甘い」みたいなコピーがあったが、それが脱毛の広告である以上、用はうなじもしっかり脱毛しないと男にモテないよということなのだろう。僕は男性なので広告のターゲットとはなっていないわけだがそれでも、なにかと勝手に決めつけてんじゃねーよ、と思う。しかもその決めつけは、いつの間にか暗黙の前提ともなっている。つまり「女性のうなじは脱毛してあるべきで、それに男性は惹かれるのだ」という前提。主語は巨大で述語は随分お粗末な前提だ。そして、そういう暗黙の前提を消費者が理解して初めて、そのコピーは広告として機能するのだ。文脈を理解するのに必要な前提をうまく有利に底上げしているという意味では、よくできた仕掛けだなあとも思う。

 

脱毛ということ自体には好感も嫌悪もないし、もちろんこれは脱毛の話でも異性の身体の話でもない。しかしとにかく、あの広告は「男性」「女性」といった巨大な単位での十把ひとからげ・それに対する無神経な決めつけが可愛い装飾によってマイルドな体裁をとっただけの、それなりの脅迫文であったように僕には思えるのだ。しかも「女性の身体的特徴が男性から見てどうなのか」という、ジェンダー的に警戒信号なコピーが平気で公共交通機関の車内に貼られているという状況も、またなんとも苦々しいことだ。

広告はときに巨大な力を持つのだから(自分が広告業界の内実を垣間見るようになったので最近ますますそう思う)、その辺はシビアにならないといけないはずなのだ。某発泡酒のCMのようにあからさまにやらかしたやつでなくても、気味の悪い広告は本当にあちこちにある。一体どういうことだと思う。どういう顔をしながら創っているのか見てみたい。

 

とはいえ、こういう内容を男性として書くのはけっこう難しい。しかも自分は社会にも社会学にもジェンダーにも、まだまだものすごく無知だ。だからかなり的外れなことを言っているのかも知れない。

しかし気味の悪さを感じることは、その問題圏に対して無知であることとは別に関係がない。僕はあの広告が嫌だった。とりあえずはそれだけだ。

 

 

文章の練習

その頃は大学内でもテレビ局関係者が「東大生の中で特別に頭のいい人を探しています。ルービックキューブを一瞬で解ける、一瞬で暗算できるなど」

とチラシを配っていたりして、ひょっとしてこの人達学問がなんなのか知らないまま大人になっちゃった人達なのでは、という諦めムードが漂ったりしていた 

@tkmtSo

という結構バズったツイートを遅まきに見つけて、それは酷いなと笑ったのだけれど、ところがなにせ僕自身がもはや学生でも学者でもなんでもなく、「学問とはなにか」などと問われても自分にだってよくわからない、とも思っている。一方で「学問ができること=ルービックキューブを一瞬で解けること」では少なくともなさそうだという確信もある。

ルービックキューブの才能の持ち主は、あるいは引用ツイート前半でいう「頭のいい」人には当てはまるかもしれない。トリュフを一瞬で嗅ぎ分けられる特定の豚さんが「鼻がいい」と形容されるように。けれど頭のいいことと学問的に優れていることは、近いようでずれている。そこをごっちゃにしていては、学問も大学組織もどこまでも実態のないものになってしまいそうで怖い。だからあのツイートも、いいたいことは超わかるのだけれど、前後に少し危ない飛躍があるような気がする。学問はもともと「頭のいい」ことと違って、ボキャブラリーを落とした表現をすれば「かなり頑張らなくてはならない」という必要条件的な特徴があるということを学んだ。たくさん文献を読むとか発表するとか、とにかくいろいろな作業が必要で、所与の才能とかひらめきだけでどうにかなるものではなさそうなのだ。

 

僕自身は哲学専攻だったので、一番身近な学問といえばもちろん哲学だった。哲学は何か特別なものだ、哲学者は何か一般的ではない人だ、という観念はかなり人口に膾炙しており、そのお陰で大学入学時には親にやんわり反対されるなど、やはり風当たりが弱いわけではなかった。

でも例えそれが哲学であっても、実直に真面目に「学問」をしていることは他の分野と少しも変わらない。たくさん勉強したからといって別によくいわれるような変人にもならないし。(いい意味で)変人はまあもともと変人なのだから、それはそれ、これはこれだ。

 「東大生は超やばい天才」「慶應生は口説きマスター」といったイメージが蔓延しているせいで当事者は結構それで苦労したりするのと同じで、哲学の人たちも随分お粗末で適当なイメージがこびりついてしまっているのは可哀想だ(と企業社会にでてからますます感じる)。

 

まあ哲学の話はいい。実は最近、よく仕事で歯科の学会に行く。これが意外にもおもしろくて、自分の医院でこんな症例がありました、みたいなのをパネル展示して不健康そうな口の中の写真が100枚くらい並んでいたり、あっちこっちのブースで歯医者さんが論文を発表したりしている。彼ら彼女らはまた、かなりの勉強熱心、つまり学問熱心なようだ。

それで当たり前だけど、歯科は「治す」という明確な目的がある。だから理論と(治療という)技巧的な部分が強固にリンクしている。哲学はそのあたりのリンクがかなり薄いから、みんなからあいつらよくわからないなーと思われているのかもしれない。歯科(やその他の)学問と違って、「文字の世界から外に出る」ようなアウトプットとしての成果が、わかりにくいのは事実だと思う。でもだからなんだっていうんだ。いろんな形の学問があれば、いろんな形のアウトプットがある。わかりにくいものを馬鹿にしてはいけないです。

 

と思った。

これ、なんの話なんだろうか。今日は少し早めの通勤電車に乗りながら考えた。思うに、すごく文章が下手になってしまった。これはそのリハビリとして書いてみた。やっぱり勉強したい、頭が痛い。低気圧だ。

 

 

「自由に、しかし楽しく」のこと

ブラームス交響曲第3番がたまらなく好きで、多分1日おきくらいに聴いている。ところでこの交響曲、冒頭の F-A(s)-F という音列には、ドイツ語の頭文字としてちょっとした意味がある(らしい)。彼の座右の銘になるとのことだ。それは、

"Frei Aber Froh"

恐らく日本語の定訳は「自由に、しかし楽しく」。いい言葉だなあ。

  

この F-A-F という音列は、ブラームスの楽曲にはたくさん出てくる。で、たしかにいい言葉だけれども、なんかこの接続詞「しかし」がしっくりこない。「自由に、そして楽しく」とかの方が日本語としては自然だと思う。

果たしてこの違和感、日本語訳がよくないから起こるのか、それとも "Frei"-"Froh" を "aber" で繋ぐのは、ドイツ人としてもやっぱり なんか変だなああ という感じがするものなのか、気になってきた。もし後者なら、真面目なイメージのブラームスも案外適当なのかも、となってしまいかねない。

とりあえずぐぐってみると、似たような疑問を持っている方(日本人)はけっこういるようで、似たような記事がインターネット2017に転がっている。やられた。

読んでみると、どの記事も「F.A.E.ソナタ」との関連で書いてある。

F.A.E.ソナタ - Wikipedia←F.A.E.ソナタについてはこれです。

このソナタの F-A-E 音列は、彼の友人ヨアヒムさんの座右の銘にちなんでいるということだ。それが、

"Frei Aber Einsam"

「自由に、しかし孤独に」。いい言葉だなあ。

 

とにかくブラームスはこの "F-A-E" をもじって、"Einsam" の「ミ」を "Froh" の「ファ」に変えたんだそうな。ちょうど音響的にも F-A-F という音列は明るいし、F-A-E はちょっと孤独な雰囲気がしなくもない。前者での Frei はまず F-dur のⅠとしてしかとれないけれど、後者での FreiEinsam の影響で a-moll のⅥに聞こえるからだ。まあそれはどうでもいい。

でもたしかに、"F-A-E" のように「自由に」と「孤独に」を接続詞「しかし」で繋げるのは日本語としてもしっくりくる。「自由に、しかし楽しく」は所詮それのもじりなんだから、多少の違和感には目をつむるべし。という解釈はあり得る。

この「もじり重視説」は、「ドイツ人も F-A-F の "aber" には違和感を持つということ」の消極的論拠にはなりそうだ。でも積極的論拠ではない。あの気難しいブラームスおじさんがそんな適当なことするかなあ、やっぱりこの "aber" は案外自然な語用で、日本語訳の気がきいていないだけではないのかなあ、という疑念はまだ残る。まあ実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

気になるものの、はっきりいってこれ以上真面目に調べるのは面倒くさい。まあとりあえず独和辞典だけ引いてみた。最近はほとんど使うこともなく埃を被っていたので、くしゃみが出た。そうしたら、"aber" の項に突破口(?)が。

aber[...]

①しかし、でも、ところが [...]

②(「しかし」の意味が薄れて)そして、それから、一方

△Der König hatte zwei Sönne, der eine heiß Karl, der andre aber Johann. 

 その王には息子が二人あり、一方はカールでもう一方をヨハンといった 

[...]

ドイツ語は最大の留年直結科目だったくらいなので語法について全然自信がないけれども、 "F-A-F" の aber もこの②で訳したらいい感じにならないだろうか。そうすれば、「自由に、そして楽しく」。よい。"aber" にこんな使い方があったのは初めて知ったけれども、それなら「自由に、そして楽しく」と訳しても極悪な訳というほどではないのではないか。これがありかなしか、実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

結局のところブラームスがどういうつもりだったのかわからないけれども、とにかく "F-A-F" において「しかし」という接続詞が生み出す違和感や屈託みたいなものは、消そうと思えば消すことができること。久しぶりに辞書を引いたらちょっとした成果があったこと。それでなんか少し満足した。

"F-A-F" か "F-A-E" か、選ぶならどちらがよいかと考えると、どちらも魅力的な言葉だが、やはりずっと孤独なのはたまに辛くなりそうなので、前者。

 

 

すくずく

つい先ほど、泥沼に嵌まった。 

 

といっても精神の泥沼に嵌まったとかそういうことではなく、物理的世界、埼玉県加須市。農業用水路の横、蛙があわれげにないていて、遠くからのんきな防災無線が聞こえたりしている。そんないい感じの畦道を歩いていた。ところが道が途中から水溜まりになっていたのでこれを避け、やや踏み跡を逸れて右横に足を踏み出したところ、そこはすくずくの泥沼、焦げ茶色の深みになっている。見た目では全くわからなかったので呆気にとられながら、まるでスローモーションのようにゆっくりと深みに嵌まっていった。泥の中は虚無。

誰もいないのに、これはマジやばいやばいやばい、などといいながらそれまでは無事だった左足に体重を移動、その無計画さがさらに災いして左足まで一層粘度の高い泥沼に嵌まってしまったさまは、あほうとしか言いようがなく、もう本当に自分が嫌になった。進退窮まった次の一歩もやはり泥沼で、もはや再起不能となって「詩人になりたい」「水餃子の皮だけたくさん食べたい」などと建設的な思考を完全に放棄した。

 

悲しいことだ。

 

全然関係ないけど、部署内ではどうやら自分が真面目で頭がいい奴、みたいになっていることへの恐怖感がある。最初の数ヵ月で少しうまくやったくらいで、だからなんだというんだ。あほうがあほうをいつまでも隠し通せるはずもなく、いや仮に隠し通せてもそれはそれで釈然としない。人が当たり前にできることがなんとなくできていない、という感覚はいつも自分につきまとい、それのせいでいつかかなり不味いことになるんじゃないかと考えると不安で仕方ない。まあ同じ不味いことならば、誰かにたくさん迷惑のかかる失敗をしてしまうより、ははは、泥沼に嵌まりましたみたいな失敗の方が良いのかも。

今回の施策については、粗利と営業利益が云々かんぬんなので異議あり。再検討を求めます。閑話休題、先ほどすくずくの泥沼に嵌まりました。温かく優しい泥でした。ご確認よろしくお願いします。なんて。本題はどっちだ。

 

嫌だなあ。そうやって変なことはせずに、奢らず、焦らず、真面目にお仕事をするに限る。

 

 

 

ひとりごと、宇治拾遺物語へのリンクつき

僕の敬愛する町田康は『きれぎれ』で芥川賞をとっているけれど、その前にも『けものがれ、俺らの猿と』で最終候補まで残っていたことがあるようだ。芥川賞全集の該当巻を借りて後ろの方を読むと、一見して物語展開は支離滅裂、いや十回読んでもやっぱり支離滅裂なこれらの小説に、選考委員である石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけているカオスな風景がみられる。(目取真俊芥川賞をとっているので、やっぱり石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけており、やれやれコンテンツだった。)

 

芥川賞とかなんとか賞だから偉いとか読んでみる価値があるという意識は別に持っていないけれど、なんとなく町田康芥川賞をとるなら『権現の踊り子』とかの方がさもありなんじゃない??と感じる。それかいっそのこと『逆水戸』とかもその系列だと思う。でもこれはちょっと短すぎるのかな。

それともこういうのはまだテーマがはっきりしすぎていて支離滅裂さが足りなくて、つまりなんか病んでいなくて迫力がないということか。だとしたら随分不健康な選考基準だ。

後日補足:すっかり勘違いしていたのですが『権現の踊り子』は芥川賞後の作品だった。これじゃあ理屈があんまり成り立たない、ごめんなさい。

 

選考基準とか評価って、それ自体どういうことなんだろうか。よくわからない。なんであろうと興味があるのは作品自体だ。なんか難しい理由があるわけではないけど、好きな小説でもその解説書とかを真面目に読む気にはならないし、「これはこういうことを伝えたかったのだ」とかどうでもいいかなーと思ってしまう。それは単なるあなたの解釈でしょって感じてしまって、ちゃんとした考証があってもそんなに重要度が理解できない。本当によくないことだ。

最近、町田康宇治拾遺物語を口語訳したのが載っている『日本文学全集8』を遂に買ってしまった。想像を絶する馬鹿馬鹿しさに電車の中でも笑いを堪えることが出来ずにいる。

 

ところで、自分でもいま何を書いているのか全くわかっていない。気持ちがけっこうへとへとだ。へとへとの時はなんでもいいから何か文章を書いてみるといい気がする。だから適当に書いた。しかし、いかんせんスマートフォンで書いたので、目の奥が一層へとへとになった。いみじきことだ。

 

宇治拾遺物語、サンプルで一話読める。

https://kawadeshobo.tumblr.com/post/129340109097/

町田康訳  『宇治拾遺物語』より

「奇怪な鬼に瘤を除去される」

 

これも十分しょうもないけれど、しょうもない下ネタがないだけまだまとも。

 

 

阪神高速14号高架橋

通天閣を抜けて、北側から南へとアーケードに入る。

さっきまで溢れそうなほどいた観光客はうそのように消え、カラオケ付き居酒屋からヴィブラートの利きすぎた下手な歌声がこだまし、どこからともなく不思議なにおいがしてくる。大阪には至るところにアーケードがあるが、山王のアーケードは明らかに雰囲気が違う。少し緊張して、せき立てられるように歩く。しばらく行ってから左に曲がれば、両脇には提灯が並び、桃色の光がぼうっと光っている地帯だ。遂に来てしまった。

一方、大阪阿部野橋駅から西方向に入ろうとすると、それは突如現れる。綿密な都市計画に基づいて最近建てられたのであろうマンション群の坂を下ると、いきなり視界が開ける。なんの前触れもなく、いきなりそこにたどり着いてしまうのだ。あまりの唐突さに、お互いの区画がもう一方の区画を決定的に無視し、存在をなかったことにしているようにさえ思える。

 

花街に入ると、いろいろなものをなかなか直視できない。料亭のひとも、道行くひとも、なにか目があってはいけない気がした。呼びの甘い声(しばらく耳に残りそうだ)、どこからともなく聞こえる15分タイマーの音………自分がここを歩いていても不思議ではなく、いやむしろ充分ここにいてしかるべき部類の者だということを、強く意識させられる。滑稽すぎだ。あの隙のない笑顔、その時どんな気持ちなんだろうか………。

ガンジス河がバラナシの喧騒を静かに見守っていたように、阪神高速14号線の高架橋が花街を見守っている。けれども高速の高架橋は、街の中心を貫きながら街の営みとは全く関係性を持たない。ただ、そこを貫くだけなのだ。高速道路を車で走っているだけでは、下の街がどういう街なのか、まず気づくことはないだろう。

 

それで100mくらい歩いたらなんかへとへとになってしまって、普段ならまず買わない甘い缶コーヒーを買って高架橋の下で飲んだ。それからすぐ帰ってしまった。それで予定どおり。