色とりどりの棒

百四十字以上の呟きなど・わかりたいことなど

2018/5/7 (題名思いつかない)

 

最近賑わっているジェンダーセクシャリティ関連の問題について、強く思うことは一応あるのだけど、思いつく限り大抵の主義主張・ケーススタディ的なものはインターネット2018に既にたくさん転がっており、無知な僕は今のところそれに賛成するとか反対するということしかできず、独自の意見やその根拠となる事例として雄弁するに値するものは結局のところ持ち合わせていないのだということを痛感してしまう。勉強不足だ。

それから自分は性的指向が女性であるような男性、といういわゆる性的マジョリティなので、その立場から言うことができることは何なのかということを考え出すと、それはそれでとても難しい問題のように見える。

例えば、自分は男性が女性にするようなセクハラも痴漢も当然受けたことがないので (痴漢自体は高校生のときに経験したことがあるのですが……)、それがどれだけ恐ろしいものなのか (質的に) わかるはずもなかろうといわれてしまうと、たしかに。本当にその通りだ。ただ、違う立場におかれている人のことを質的に一人称的に(?)はわからないとしても、言語的に命題的に(?)はわかることができるというのがヒトの長所でもある。対象となる経験が自分にないということは、それについて思考を停止する理由にはならないはずだ。仮にも自分に都合が悪いからといってわからないことにする、というのはなんというか信条に反するから駄目だ (わかりはもっと高尚なのじゃ)。

そんなわけで、わからないから仕方ないで済まさないことだ。と思った。

 

 

いろいろな事件などがあって、にわかに盛り上がっているこの問題だけど、それでも男女に関係なく「結局過激なフェミニストが騒いでいるだけでは?」などという意見があちこちに転がっている。自分は加害者になったことは一度もないから大丈夫・この国の構造がそうなんだから多少は我慢しろ (そんな~!) 云々、いろいろいう人もいる。

ただ、この話に「関係ない」は誰であれ通用しないはずだ。この話のセクシャルな部分は確かに個人の問題かもしれないが、ジェンダー的な部分は言葉の定義上、共有されるべき社会全体の問題なのだ。関係ない人なんてひとりもいないはずだ。

例えば、「■■は~~という問題を起こした」というような個別事例は確かに私自身の問題ではないが、そういうことが起こってしまう背景にあるジェンダー的な不平等は私たち自身の問題でしかあり得ないのじゃないかなということです。

これまではセクシャリティの課題・ジェンダーの課題は語られる領域が少しずれていたように思う。でも当然そのふたつは完全に分けて論じることなんてできるはずがなくて、それが今やっと融合してきたということなんじゃないかな。

それに、賑わってきたこの話を「自分には関係ない」で済ますのはもったいないとも思う。これまで何十年何百年も続いてきた旧弊な構造を、個人の発信がなんとか壊そうとしているのだ。こういう動きを性差別の話で留めておくのは惜しい。他にもぶち壊さないといけないものがあるはずだ (metooを叩いている暇があったら、逆にもっと便乗して自分の文句もいっちゃえばいいのに……という気がする)。性差関係なく、半端なく旧弊なものに苦しめられているのはあるんじゃないかと思うのですが。残業やばすぎーーとかそういうやつでも。なんでも。

そんなわけで、自分には関係ないで済まさないこと。と思った。

 

少しがっかりするようなことがあって、長々と書いてしまったのでした。がっかりしたよ………。

 

 

 

多摩川のこと

 

自分は多摩のにんげんという意識がなんとなくあるので、そこを流れる川にも愛着がある。多摩川多摩地域を北西から南東へと流れる川で、やはり街の中を流れているイメージが強いけど、その源流は山梨県の山奥で、流域の半分くらいは山中の渓流なのだ。それに「街」のイメージが強い南側も、多摩丘陵の複雑な地形に開発が阻まれて、実は秘境みたいなところが随所に隠れいているのが面白い。家から数キロの範囲でも、まだ たけのこ狩りができる場所 や 蛍が自生している場所 や 探検しないといけない場所 が残っている。

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とにかくそんな立派な多摩川だ。鉄道(私鉄)が鉄橋で多摩川を渡る際には、しばしば駅名に「多摩川」が付く。みんな今から多摩川を渡りますよ、と一度宣言してから渡っている。えらい。具体的には、京王相模原線の京王多摩川小田急小田原線和泉多摩川東急田園都市線二子玉川東急東横線多摩川

……と列挙すると、東急東横線はなんなんだよ、と思う。他の路線は「自分にとっての多摩川は結局これなんですよね。」という自意識をしっかり持って、「○○多摩川」という駅名としているというのに、東横線だけただの「多摩川」とはなんだ。別にあなただけの多摩川ではないのだ謙遜が足りない。

それから東急にはもうひとつ文句をいいたい。多摩川(駅)から蒲田を結ぶ路線を「多摩川線」と名づけたでしょ。全長138キロもある多摩川流域のうち、たった5.6キロしか並走しないくせにでっかく出たな、と思う。仮に「多摩川線」という名前の路線があるなら、それはもっと川に長く寄り添う、南武線青梅線の方が相応しいように思う。

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多摩川の河口から羽村堰まではサイクリングロードがあって、天気がよければそこを のしぼう (という名前のロードバイク) で走る。サイクリングロードは信号がないから疲れないし、車がないから危なくないし、季節によってはピクニックしている人などもいるから楽しい。檜原に行くにも、奥武蔵や秩父に行くにも、23区に行くにもまずは多摩川に沿って走る。

大学に行くにも、長期休暇で定期券が切れるとよく多摩川沿いに走った。山に登りたくても、海に行きたくても走った。必要に迫られて真夜中に半べそで走ったりもした (あろうことか必要に迫られたときには酒を飲んでしまって、車を運転できなかった)。別に必要がなくてもへらへらして走った。

とにかく、ずいぶんたくさん多摩川を走った。本当にいろいろな場面で、そこに多摩川の景色があったように思う。 

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そういうわけで、この川が結構好きだ。多摩川は奥深い。えらい。昔は汚染が酷かったが、今では中流域でさえ鮎がいるほど綺麗になったらしい。鮎は本当にうまい。それとは関係ないけど、東急多摩川線も大好だ。駅がみなローカルな感じでよい。特に年代物のベンチが各駅に残っていて、それがとてもよい。

多摩川サイクリングロード、走ってみてください。多摩川線にも、乗ってみてください。よろしくお願いします。おしまい。

 

 

Disjunctivismなど

 

これまで第8章では、強い表象主義の正しさを論証する取り組みを追ってきていて、次第にわかりの総量が増えていっていた。第8章は最後に「表象的対象は志向的対象であること」「志向的対象を表象的対象とする表象主義は、物理主義的(もっと踏み込めば、タイプA物理主義的)な理論のもとで整合性を保つことができること」が証明されてゆく。

前者については、時空的対象 object in space-time やセンス・データといった、表象的対象としてのその他の候補が、錯覚の問題や存在論的な問題を乗り越えられる強靭性を持っていなかったということで篩い落とされ、志向的対象が候補として残ったということで概ねはいいような気がしている。

しかし後者は厄介だ。まず表象的対象を志向的対象として考えることは、本当に物理主義的なのだろうか、といわれたらどうしようか。例えば、「表象的対象=時空的対象説」(存在論的には素朴実在論的なやつ)は、錯覚や幻覚をうまく説明できないということで却下された。一方で、志向的対象はそれを汲み取れるという。なぜか。錯覚という本来の在り方から逸れたもの、幻覚という本来ならば存在さえしないものも、志向的対象ならば表象的対象として扱うことができるからだ。なぜできるのか。いや、というかはっきり言って、このように「存在しない対象」を心的なものとして扱うには、二元論に頼るしかないのではないか。この方針での物理主義は失敗するのではないか。

…………などという人が出てくるかも知れない。しかし筆者によれば、ある理由によって、この方針が二元論に頼る必要はないし、逆に、頼ったとしてもその論証はうまくいかない。だから、志向的対象説を二元論的だと論じるのはお門違いであるという。

では物理主義的に志向的対象を分析するとどうなるか。筆者はそこを乗り越えるのに、可能世界概念を使った議論を展開するのだけど、それは一旦いい。疲れた。

 

それはさておき。

少し前に選言主義テーゼというのが出てきたのだけど、あっさり否定されてしまって可哀想だったので調べてみた。Stanford Encyclopedia of Philosophyを眺めると、やはり選言主義テーゼの元となっているdisjunctivismというのはどうやら、perception (representationではない!)の種類に関する分析のようなのだ。彼らは、錯覚や幻覚とveridical perceptionsについて、それらは経験としては同じだけど、「根本的な部分では」異なる(あるいは、それらは別の種類の心的状態である)などというらしい。この主張は、志向性という概念を念頭に置いた上で、veridical perceptionsの特権性(?)を認めるので、心の哲学においての素朴実在論的な主張を擁護する。これがうまくいけばセンス・データ理論や可能世界を使った志向的対象理論などというややこしそうな理論を持ち出す必要もない。シンプルに時空的対象説でいきたいということだ。しかしもちろん、錯覚や幻覚の説明は難しくなるという欠点がある。

そういうわけで話が戻って、第8章の中で「表象的対象=志向的対象」説を擁護するステップとして、選言主義者的な主張を持ち出して論破するという、そのやり方自体に感じていた違和感とは、それらの議論の前提に表象主義が正しいということがあり(それは「最小の表象主義」を使って証明済だ)、では次にそのrepresentationの詳しい分析としては何がいいかなという階層の話をしているのに、ここでperception自体に関する理論(=disjunctivism)という一階層上の問題圏を扱うものを持ち出しても大丈夫なの……?ということであったようだ。言い換えれば、disjunctivismは表象主義の正しさを仮定すると確かにうまくいかないかもしれないが、もっと別のフィールドではうまく志向性とperceptionを説明する能力があるかもしれないじゃん、ということである。本当に大丈夫なのか。

とはいえ、確かに心の哲学での素朴実在論はいまいちな気がする。ということはdisjunctivismもいまいちな気がするということだ。本当にいまいちなのか。

わからない。

まだ、選言主義テーゼとして変則的な登場をしたdisjunctivismの概要を知って、自分が何にもやもやしているのか、ということがわかっただけだ。これでdisjunctivismへの批判がよくわかれば次に進める。早くわかりたい。

 

 

食事概念が崩壊して本当に笑った話

 

 

食事ということは、人間があくまで動物であるということがよくわかるような、とても原始的で生物的な行為だと生々しく感じることが最近よくある。それでも食事という行為は、排泄やら睡眠やらといった、同等に「原始的で生物的」(と僕が感じる)行為に比べて、社会をやっていくのに際し飛びぬけて活用されているのは面白いことだ。興味深いことだ。

 

例えば会社に入ってからもう随分な数をこなした 接待 ということ。接待というのは結局、自分の組織が地位面・金銭面などでプラスな結果を得るという、高度に社会的な目的を持っている。そんな高度に社会的な目的を達成するために、社会的に偉い人たちが一緒に、食事なんていうことをする。言い換えれば、社会的に偉い人たちが一緒に、「経口での栄養摂取」をしながら社会的に偉い話をする。そんなことに、時折だがギャップのようなものを感じるようになってしまった。食事のゲシュタルト崩壊という感じ。そういえば、そんな感じの話が村田紗耶香の小説にあった。

それでこの前、某重役氏と会食(というか接待)があるというんでぺこぺこしながらついて行った。某重役氏との会話は今後の事業展望がどうたらとかそういう類なのに、同時に食事をしている。経口での栄養摂取をしている。笑える。「食事をしている」と言葉で表現すれば全く当たり前のことなのだろうけど、その時の僕はもはや食事概念が崩壊しているので、素直に状況を捉えられない。そうなると本当に笑えてくる。遂に笑いが堪えられなくなって、少し離席してトイレで暫く笑った。酒もほとんど入っていない状態でこれはやばいと思った。接待中にこれはまずいと思った。ちなみに、食事は非常に美味しかった。

 

とにかく、とても大切な場面で誰かと食事を共にする、または食事の場でとても大切な事が決まるというのはよくある話で、これだから食事は本当に凄い。こんなにも原始的な行為が、こんなにも社会的で文化的に発達しているのはびっくりする。

本当に凄い上に、僕は個人的に食事ということ自体が大好きなので、毎回の食事をもっと大切にしたい。正しいものを食べたい。正しい状況で食べたい。好きな人(たち)との美味しい食事は、本当に幸せ。逆に憂鬱な食事会は、憂鬱な会議の千倍くらい憂鬱だ。こんな具合に、もともと持っている感情が、食事を通して増幅されるということ。それもやはり、食事ということが(それは全く恥ずかしいことではないけれども)一般に了解されているよりずっと原始的な要素を含む行為だからなんじゃないか。普段食事概念を語るとき、その社会的な側面ばかりが前面に出すぎているんじゃないか。一度そのように感じてしまうと、厭な会食というのはもはや生理的な厭さを感じるし、人権侵害(言いすぎ)とさえ思えてくる。最近は様々なシチュエーションでそういう人権侵害()も頻発しているので、そういう時は心の底から家に帰って寝たいと思う。

 

ここのところ食事に対していろいろ憂鬱なことがあったから思考が迷走し、挙句の果てに食事概念が崩壊して会食の場で笑い出すといった事故が起きたのかもしれない(単なる言いがかり)。というか、この記事自体が何をいっているのかよくわからなくなってきたのでそろそろやめる。とにかく正しい食事がしたい。それから厭な食事を取り除き、楽しい食事をもっとしたい。なぜなら、楽しいことは基本的には良いことだからだ。

 

 

「強い表象主義」界隈について その二

 

 

勉強ノートの続き。

ジャクソンが「最小の表象主義」と「透明性テーゼ」の正しさを信じ、それを用いて「強い表象主義」を導く仕方は、その論理的不明瞭さの問題もあり、必ずしも説得力のある論証とはいえないと山口先生は考えている。しかし、強い表象主義を証明しないことには「クオリアは知覚や感覚の表象的性格を越えない」(p221)というタイプA物理主義的な結論を導くことはできない。そこで著者本人による「論理的に妥当な」強い表象主義の証明がここでは行われる。

 

ところで山口先生によれば、「心的状態それ自体が主体へ提示するもの」(p222)という意味合いとしての心的状態の性格 character を考えるとき、それは「対象の性格」「自立的性格」という2つに分類される。「対象の性格」は字義通り対象へ帰属する性格である。一方の「自立的性格」とはその反対で、いかなる種類の対象にも属さない性格のことである。とはいえ、あくまでひとまず考え方を便宜上このように分類しただけであって、両者が共に存在するというわけじゃない。

さらに、心的状態の対象についても「表象的対象」と「非表象的対象」の2種類に分類する。前章で確認したように、表象的対象は志向的対象であり得る。この考え方は世界を「正しい表象をすること」/「誤った表象をすること(錯覚とか)」を的確に説明する。(とはいえ、例えば心的状態の議論における直接実在論を錯覚の存在などを考慮して否定したような状態で、志向的対象に対しての世界の表象の「真偽」はどうやって決定されるのかはまだ全然わからない。しかしこの点は、後に可能的個物という概念を伴って説明される。よかった。)

一方で非表象的対象とは、それがセンス・データであるような対象のことだという。表象には実際のところ真偽があるという特徴を鑑みると、センス・データはその特徴を汲み取って説明することはできておらず、だからそれが世界を表象しているとはいい難い。センス・データは、「通常の対象」とは存在論的身分が全然違うのだ(だが、いきなり通常の、などと言われてもなあという気も少しする)。

 

さて、以上の道具立てが揃ったところで、選言主義テーゼ the Disjunctivist Thesis と、その逆である非選言主義説 the Non-Disjunctivist Thesis が導入される(p225)。ここがある意味で議論の真打ちなのだが、ここを読んでいると、山口先生の目指した論理構造とは、述語論理的なそれだったのか、ということが見えてくる。骨格を掴むだけならもう少しだ。

それで、ここでの選言主義テーゼとは、「心的状態が、表象的対象と非表象的対象を併せもつ」(p225)ということである。つまり、心的状態の対象は2種類あるということだ。非選言主義テーゼはその逆で、心的状態は前者のように表象的対象と非表象的対象が混ぜこぜになることなどない、心的状態の対象は1種類だけだという命題である。つまり、非選言主義テーゼによれば、心的状態の対象は完全に表象的対象であるか完全に非表象的対象であるかのどちらかである。

ここで著者は非選言主義テーゼが正しいと考える。なぜなら、選言主義テーゼの場合は、心的状態においてはどこまでが表象的対象(≒志向的対象)で、どこからが非表象的な対象(≒センス・データ)なのかを判断することの無理みなど、なにかと無理みがあるからだ。

この議論が正しく、また最小の表象主義が同時に正しいのだとしたら、選言主義テーゼのみならず、非選言主義主義テーゼの「心的対象は完全に非表象的対象である」という一方のオプションも拒否される。

つまり、心的対象は完全に表象的対象である。これは強い表象主義の主張に他ならない。

 

なるほど。

この議論の骨格は、「あるものはRである」「全てのものがRであるか、全てのものがRでないか(のどちらか)である」という前提から「全てのものはRである」を導くという、明解に述語論理的な推論であり、確かにわかりみが深い。後でちゃんと計算してみようと思う。

でも、これだけでは志向的対象こそが正しい表象的対象の解釈であるということがよくわからないし(これはこの後のテーマになる)、結局この議論は解放されたメアリーに何が起こったという議論なのかもまだわからないし(これは前章の議題)、そもそも最小の表象主義が本当に正しいのかについてもセカンドオピニオンがほしい。それから、選言主義テーゼの否定が少しあっさりしすぎている気がする。もう少し知りたい。等々、やはりまだ、わかるという気持ちになるには早い。早くわかりたい。

 

 

「強い表象主義」界隈について その一

  

山口先生の『クオリアの哲学と知識論証―メアリーが知ったこと』は、卒論の時にも引用させていただき、なぜか卒業してから遅すぎる購入、以降わかり砂漠©が出現するたびに読んできた楽しい本なのだが、ここへきて本格的に何もわからなくなってきたので、わかりたい。

わかった後の目標としては、能力知ついての第七章・(新)ジャクソンの表象主義についての第八章の感想がいいたい。ではなぜいいたいのかというと、結局タイプA物理主義がなんぼのものなのか知りたいからだ。というわけでまず議論内容を追いたいと思う。ここでは第八章第三節(pp201-220)まで。

 

心の哲学の有名すぎる思考実験「メアリーの部屋」の文脈において、チャーマーズ式の便利な分類でいう「タイプA物理主義」へと転向した(新)ジャクソンは、表象主義を採用することで(旧)ジャクソンに立ち向かっていくのだった。

では(新)ジャクソンの表象主義とはなにか。

心的状態のなかでも、「態度」というカテゴリーについては、「信念の本性は表象的性格であり、表象的性格は機能主義的に規定される」という(広義の)物理主義的な説明が既に確立されつつある。この説明を、「知覚」「感覚」といった、目下(その現象的側面の問題を伴って)問題となっている他のカテゴリーにも完全に適用することができれば、つまり知覚・感覚についても機能主義的説明はその本性を余すことなく汲み取れるということで、今回の目的は達成される。これを証明するのが表象主義に即した(新)ジャクソンの仕事である。

 

仕事をするにあたって、まず彼は、「最小の表象主義」「強い表象主義」「透明性テーゼ」という道具立てを用意する。やりたいことを先取りしていってしまうと、「透明性テーゼを使って、最小の表象主義から強い表象主義を導く」ということらしい。

なお最小の表象主義とは、「対象を表象しない心的状態はない」ということであって、逆にいえばある心的状態には非表象的な要素が含まれることを否定しない(p209)。そして最小の表象主義は、多く立場の哲学者が認めるものであるらしい(…本当にそうなのだろうか。ここの註にはブロックが強力な批判者であることがわずかに仄めかされているが、それは一体どんな議論だったか忘れた。この辺りは砂漠地帯)。その際、もし実際に知覚や感覚の表象内容の中には非表象的な要素としての「クオリア」が存在しており、かつクオリアは機能的な分析の範疇から逸脱しているのだとすれば、表象主義によるタイプA物理主義は端的に失敗している。したがって、最小の表象主義は新ジャクソンが旧ジャクソンに対抗するという目的を達成するのに十分ではない。

一方で強い表象主義とは、「心的状態とは完全に表象的である」ということであって、要は心的状態の構成において、非表象的・現象的要素としてのクオリアの類などないということだ。これならタイプA物理主義としての目的は達成される。

 そういうわけで、ジャクソンは最小の表象主義から強い表象主義を導かなければならない。そこで使われるのが「透明性テーゼ」だ。透明性テーゼは、著者によれば「心的状態が主体へ提示するものは、この状態の対象の性質である」(p213、太字は本来ルビ)ということである。

ちなみにここでいう「対象」の説明として、ジャクソンは3つのオプションを用意している。それは、素朴実在論的な帰結をもたらす「時空的対象」説・非表象的な心的存在を心的対象と見做す「センス・データ」説・物的対象そのものではなく、表象されるあり方(事)が対象であるとする「志向的対象」説だ。どれが正しいのかの議論は本筋から逸れるわけだが、とりあえずジャクソンの議論を追うために「志向的対象」を正統的見解とする(ここも砂漠だったが後に説明があった)。

 

ともあれ以上の道具立てが揃ったところで、ジャクソンによれば、最小の表象主義と透明性テーゼを組合せて用いると、「心的状態の対象は志向的対象である」という中間結論が帰結するらしい。さらに中間結論と透明性テーゼを再び用いると、強い表象主義が帰結するという(p217)。確認したとおり、強い表象主義はかの思考実験における二元論的な(そして物理主義者にとっては奇妙な)帰結を拒否できる。めでたい。

しかし著者によれば、帰結には賛同するものの、議論の道筋はいまいちである。いまいちすぎるのである。というのも、この論証がいかなる論理形式・推論規則を用いているのか、よくわからないからだ。そういう論証は駄目なのだ。だから、著者はオリジナルな別の論証で強い表象主義を支持したいと思っている。第四節以降では、山口先生流の論証で強い表象主義が正当化されてゆく。

 

という理解でよいのだろうか。

本当は第四節以降も書こうと思ったのだが、夜が明けて日が昇ってきた。いみじきことだ。

 

 

 

雄山一

 

三宅島のおっさんと火山の話。

 

11月、離島への船旅がしたくなって、オフィスにでかいリュックを持ち込んで、仕事が終わったら竹芝桟橋へと直行、三宅島・御蔵島八丈島へ向かう夜行船に乗り込んだ。翌朝には八丈島にいる。はずだったのだが。

その日の伊豆諸島は嵐。船は揺れまくるし、デッキに出れば暴風で歩くこともままならない。そんなわけで真夜中に三宅島に寄港した後、4時間くらいかけて八丈島に向かったものの、着岸が難しいとのことで遂に引き返し、また4時間かけて三宅島に戻ってきてしまった。揺れる揺れる、全く無為な8時間の浪費。この不確実さと荒れた海に対する無力感も、離島への船旅の醍醐味と思わなければならないようだ。

 

ところで、なぜ同じ気象条件なのに三宅島にだけは着岸できたのか。それはどうやら、波の向きによって、嵐の中でも着岸できる港の方角というのがあるかららしい。例えば南の風なら、波の影響が少ない北向の港は強い、とか(そんなに単純ではないだろうけど)。

では、それぞれの島に港は何ヵ所あるのか。

御蔵島は北(御蔵島港)に1箇所。八丈島は北東(底土港)・南西(八重根港)に2箇所。対して、三宅島には東(三池港)・南西(錆ヶ浜港)・北西(伊ヶ谷港)と3箇所ある。三宅島の場合、この3つのうちどれか2つが駄目でも、どれか1つが使えれば良いので、着岸率が上がるというわけだ。

七島の中心地である八丈町より、人口も少ないこの三宅村に、大型貨客船が着岸できる港が多く整備されているというのは、少し不思議なことだとも思った。

 

 

さて長大な前提となったが、三宅島を隅々まで案内してくれたおっさんが、この港の多さの理由をも語ってくれた。おっさん曰く、理由は雄山の噴火だった。間接的には、だけれど。 

雄山は三宅島の中央に聳える活火山で、20年ほどの周期で内部にマグマを溜め込んでは噴火を繰り返しているらしい。最近は1983年と2000年に火を吹いた(僕も2000年の噴火はテレビの中継で見たのをなんとなく覚えている)。

その度に、島は滅茶苦茶になった。

1983年噴火では集落に溶岩がなだれ込んで学校が全部埋もれた。その赤黒い溶岩の上を歩くことができる。2000年噴火では何年間も島外避難を強いられ、泥流が神社を埋め尽くし、有毒ガスで木はみな立ち枯れた。それらもまた、露骨に姿を留めている。

 

こういう荒々しい島なので、島民はさぞ辛いだろう、可哀想だ、と思ってしまう。だが、そういう本土民の「可哀想だ」のおかげで三宅島の経済は回っているのだ、とおっさんは話す。

例えば港が八丈島より多いのも、噴火の度に国や都からの復興予算がつくかららしいのだ。それから噴火があると、消費者の心理が同情に傾くことで物産もよく売れた。公共施設も建て替えられた。島の経済は、間接的には噴火で成り立っているというのがおっさんの意見である。

「だから、三宅島の経済が行き詰まってきたら、雄山に一発ドーンといってほしいんだよ。次は東京オリンピックが終わったあたりがいいなワハハハ」とのことだ。

 

全くなんちゅうしたたかさかと思う。

 

どうやら噴火に対してこんなに飄々としていられるのは、最近の噴火では(奇跡的に)ひとりの死者もだしていないからのようだ。それでも雄山にはかなり生活を乱されているはずなのに。

おっさんからは「島民として雄山と共に生きる」という気概みたいなものも感じたが、そこに復興予算や同情心理をあてこんでいるという、あまりにも現実的すぎる要素が加えられために、その気概は全く綺麗事ではなくなっていた。いやしかし、その分かえって凄味のある気概がじわりと伝わる。

山への敬意、山への畏れ、それから山の災さえもをしたたかに利用すること。全部ごちゃまぜになって味わい深い。

こういう感覚をどう思うかはひとそれぞれだと思うけれど、僕はそのしたたかさを格好良いと感じる。

もちろん、それを自然災害の被災者一般へと敷衍して捉えるのは違う。これは被災者の心理の話などでは決してなくて、三宅島の島民の話でも決してなくて、一人のおっさんについて僕が感じたことの話だ。ただ、そのおっさんは滅茶苦茶に強い奴だった。

 こういう考えは、やはり現地に行かないと聞けないのではないか。そう思うと、三宅島に行って良かった。

 

東京へ帰る際、おっさんは三池港まで車を出してくれた。そうして着いた港の待合室には、本土のロータリークラブが建てた「滅私奉公」みたいな文字を刻んだでかい碑がある。いつだかの噴火の際、そのロータリークラブがボランティアに来たときの記念碑だった。

僕はそれを、端的に趣味が悪いと思った。島民はどういう目でそれを見るのだろうか。三宅島の焼酎で酔った頭で考えてみる。

 

三宅島の焼酎は、名を「雄山一」という。

雄山はすごい山だ。おっさんはすごい奴だ。