色とりどりの棒

わかりたい

思考実験と組み相撲はとらない

(これは10/30の投稿とセットにするつもりで書いたのだけど、やっぱり微妙なのでは?と思いだしてお蔵入りしていたやつです。でも卒論でも発表でもなんでもないので、なんかもったいないしもう微妙でも構わないやと今さら開き直った。)

心の哲学で卒論を書きたいという以前からの決意に全く変わりはないのだけど、やっぱり思考実験を使って意識を形而上学的に論じる方針については相当無理あるな???という思いが日に日に増してゆく。

これまでもそういう感覚はあったが、それでもデネットみたいな過激派をみていると「とはいえ思考実験をすること自体は議論の幅を拡げるのに役に立ってるんだし」みたいな思いもあった。その辺の折り合い(?)がつけられていなくて、いろいろ中途半端になっていた。でもむしろ今はデネットの直観ポンプ云々という批判の受容より、思考実験で得られる形而上学的な結論も結局「認識」が一枚噛んでるわけで、そんな直観だけで意識の存在論は語れないでしょと単純に思う。卒論で説明ギャップの話を持ち出そうとしたのも、それが認識論的な話だけに特化しているからというのが理由として大きい。なんというか、論法が謙虚だ。(当のレヴァインも我々の形而上学的直観は脆弱だということを重視しているみたい)

とにかく存在論的二元論を相手に思考実験を使って戦うのは、そもそも相手の土俵に乗っちゃっていてなんか気分がよくない。某ギリシア人が「たとえ哲学的な問いを解除するにも哲学が必要だから哲学はすごい」的なことを言っていた気がする(忘れた)けど、その引きずりこみ論法ずるくないですか。それと同じで、思考実験の結論を正面から論駁するにはやっぱり思考実験をしろということになりがちなので、引きずりこまれる前に始めからその土俵を降りておきたいんです。土俵に上がってまともに組み相撲をとれば、たぶん歯切れ悪く負けちゃうだろう。

じゃあどう論じれば意識について納得いくかたちでわかりを得られるのか考えたところ、心や意識の概念が形成された過程と科学的同一視、という観点から切り込むのがいいのではという結論に至りつつある。卒論では、心の概念を含む素朴概念はそもそも経験と心的過程を経て形成される上に、言語文化的なバイアスやその他いろんな要素が絡んでいて、その素朴概念に科学的な説明的同一視を与えても、成立過程上の差異から齟齬が生じている「ように見え」、それがギャップの正体である、みたいなことがいいたいんだけど、果たして大丈夫なのでしょうか………………まあ大丈夫じゃなかったら新しいのを考えるまでだ、強気はだいじ。

まあそういうわけで心の哲学ではありながら、「意識とは」という直接的な悩みはやめる。だって意識なんて今までで一個(自分のやつ)しか観察したことないから、直接論じなさいといわれても情報が少なすぎてお手上げである。で、その代わりに「説明とは 概念とは 推論とは」という悩みに移行することにした。悩むポイントをずらすことで思考実験の軛から逃れて、いわば議論の自然化みたいなことが少しでもできればいい。

とかブログでいってる場合じゃなくて、本文を書け、本文を。言い訳をすればこの文章は気晴らしに書いただけで、これを書かなかったとしてもどうせ意味不明くそツイートを量産していただけだろうということは明白なので、どっちもどっちなんだ。

あと思考実験については、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』(岡本裕一朗,2013 筑摩書房)という文庫本を読んだことがある。領域が多種多様で読み物としてはけっこう面白い。こんな文を書いたあとでも受け入れられる思考実験もあれば、そうでないのもある。とにかく、いろいろよく思いつくよなぁと感服した。

 

 

旋律地獄

必要に迫られて最近は哲学の勉強もまあそこそこやっているつもりだけど、平行してこっそり音楽理論の勉強もやっている。そうしたら基礎は知っていたつもりだったのにけっこう何もわかっていないことが発覚した。

その中でも今一番興味があるのはバッハのフーガ、特に平均律クラヴィーア曲集のフーガで、全然うまく弾けないくせにヘンレ版の楽譜(のコピー)にはアナリーゼもどきの書き込みをして遊ぶ。以前ちょうどオーケストラの演奏会で配るパンフレットにバッハ=フーガの解説を書く機会があったので、その時に張りきっていろいろ関連書も読んだ。読んでて楽しかったのはフランスの初心者向け解説書『ライプツィヒへの旅―バッハ=フーガの探究』(ミッシェル=モラール, 2013 春秋社)というやつ。内容は先生と生徒による対話形式で、僕が「なるほど!」とわかりを得たタイミングで登場人物の生徒も「なるほど!」というセリフとともにわかりを得たりしているので読んでいてなんか面白い、そんな本です。

それで個人的に思うのは、バッハのフーガには、よく言われる「美しい」とか「敬虔だ」という形容よりも、「とてつもない」とか「凄まじい」という方が合っているということ。実際、声部同士が決定的に対立してしかも互いに全く妥協せず、結果的に和声としては大変な不協和音になっているという部分もたくさんある。僕が平均律の中で一番好きな第一巻のロ短調(BWV 869)などは、誰だかが「不協和音の絨毯」とか評していたほどだ。というかなんだよその表現かっこよすぎかよ。

いやでも本当にその曲は「不協和音の絨毯」が敷き詰められているし、特にオルガン曲のフーガとかはそういう意味で正直聴いていてキツいものさえある。多声部の旋律が同じ音量(しかも大音量)で容赦なく脳内にぶちこまれる。旋律を追うことができず、脳はパンク寸前。理解できない、うるさい、キツい。旋律地獄なのだ。でも楽譜を見ながら聴くと次第に頭が整理されて、それぞれの旋律が分析された状態で認識できてくる。そうなればなるほど感動!なんだこの曲凄すぎる!と思えてくる。僕はオルガン曲のフーガの鑑賞ってそこから始まると思う。旋律地獄の先に、それぞれの顔を持って声部が立ち表れてくる、そこからだ。というわけでこれはやっぱり「美しいバッハ」なんかじゃなくて、「凄まじいバッハ」だと思うのです。ウオオオオすげえ。ゴゴゴゴゴ。

(有名なBWV 542とかは「凄まじいバッハ」の代表格という感じがするので聴いてみてください)

ところで完全な独学なのだけど僕も趣味で作曲をしている。中学生で初めて作ったとき以来、先生は主にベートーヴェンソナタだった。けど最近は前衛音楽っぽい多調的無調性で、バッハ以来のフーガ形式をやったらスーパー面白いのでは??と思って挑戦してみている。かれこれ2曲出来上がったんだけど、うーんどうなんだろうなぁ。少なくとも和声の綺麗さとは無縁の出来だ。汚ねぇ。あとこれは昔からだが、でかい頭ばかりが先行して肝心の指が追いつかないという悲しい事態に陥っているので、自分で作った曲なのに満足に弾けない。つらみ。まあとにかく今度の発表会でちまちま演奏してみたいと思う。

あとはこれは議論が星の数ほどありそうだけど、たくさん楽理を勉強して、楽譜と格闘しながらじゃないと芸術の悦びどころか苦痛にさえなるような音楽(=わかりミュージック)にはどういう価値があるのだろうか。まあどちらかというとこれは難解な現代音楽に必要とされる問いでしょうね。音楽なんてぱっと聴いて直観的に価値を判断され得るようなものだけあればいいじゃん、という人は結構おおい。実は自分の身近にも恐らくそういう意見であろう人がいて、音を聴かないで楽譜ばかり眺めていた僕に「音楽は聴くものであって視るものでも考えるものでもないよ」とか言ってきた。難しい議論はともかく、まあ好きにさせてくれよ……と思うよまったく。和声理論や対位法でご飯を食べている人たちがいるという事実が示すように、ともかくそういう変な人というのは一定数いるのです。そっとしておいてあげましょう。

以上です。「メンデルスゾーンには泡盛」というのがこのブログの一貫した主張なのですがバッハにはなんのお酒がいいかな。ショットのウィスキーかな、「白州」というより「山崎」かな。

ちなみにバッハ自身はビールが必需品だったようで、ヴァイマル時代の出納帳には宿泊費や食費とは別に「ビール費」が別会計で計上されているとのことだ。ビール費、ほしい。

 

 

わかり砂漠©が増えてゆく話

卒論がやばいという話。10月頭におおまかなスケジュールをたててみたものの、既に追いついていない。冷静に、まずいかもしれない。

今は卒論のテーマでもある、「説明ギャップ」の進化形(?)である「概念ギャップ」の批判論文を読み進めているという段階だ。僕もこの立場を擁護していきたいと思っていて、最良の説明、同一性、相関テーゼ、といった言葉をもっとずっと勉強しなくてはいけなくなっている。

いや実は、一時は早くもこれでもう書ける!という段階にきたとさえ思われた。そんなふうに油断してたのは3年秋のころだったかな。まだ今よりももっと無知で、そのことが逆に向かうところ敵なしくらいに思う原因になっていた。思えば馬鹿みたいな話だ。

でもいろんなものを読めば読むほど、結局その内容に文句をつけたくなったり、あるいはその根拠になる議論を知らないといけなくなったり、何かが解決するどころかどんどん課題が増えてゆく。今まで発見できていなかった土地に、文献を読むことで広大なわかり砂漠が広がっていることを発見してゆくというイメージ(「わかり砂漠」はテクニカルタームだよ)。とにかく向かうところ敵だらけじゃないかと、後れ馳せながら気づいてしまった。参ったなぁ。

そしてまた卒論の中でも、やはり自分の立場、それに対する仮想反論、さらにそれに対する再反論、というように重層化してゆかないと説得力のあるものは書けないはず(せっかくだから適当なもので済ませたくはないし)。でもこの自分で自分に反論するという作業は難しくて、なぜなら自分の主張を読んだ人がある程度「思いつきそうな」ものでないと仮想反論としては効果が薄いだろうからだ。つまり、仮想反論はある程度「一般的な」ものでないといけない。こういう風に、それまでの議論の流れなどを鑑みつつ、突っ込まれがちなポイントを自分で見つけだして反論を書くというのはけっこう至難の業な気がするんだけど、みなさんはどうなんでしょうか……??参ったなぁ。

ところで夏休みに、黒島という沖縄県八重山諸島の小さな島で、

「本読めば 知りたいことが よく知れる」

という小学生の川柳(?)を見つけて大爆笑したことがあった。しかしこの時期になって、実態は俳句と真逆だということに気づく。本で知りたいことがよく知れるのは確かだが、それ以上のペースで知るべきことが山積してゆくという感覚がある。僕はあえて、「本読めば わかり砂漠が 増えてゆく」とでも詠みたいと思いますね。いや、あほなこといってる場合じゃない。まじで何もわからん。ついでにいえば今練習しているドヴォルザーク9番のスケルツォのリズムとか、そういうのもわからん。やれやれ、結局何が言いたいのかさえわからなくなってきてしまった。参ったなぁ。

仕方ないから泡盛でも飲みます。個人的に泡盛にはメンデルスゾーンという感じがする。

反例てんこもり哲学の徒然考

『フィクションの哲学』(清塚邦彦, 2009 勁草書房) を読んだ。

けっこう面白い。フィクションを語るとはどういうことなのかについてはプラトンの時代から「ミメーシス」という概念で語られている問題である。以前アリストテレスの『詩学』を授業で読んだのにさっぱり価値がわからず終わったのとかが少しだけすっきりしたのもよかった。

フィクションの哲学といっても、フィクションの統語論、意味論、言語行為論、非言語的作品について、そしてフィクションの中の真理の問題、といろいろジャンルがあるようだ。フィクションの哲学は生活に身近な物語という形式について扱っていることや、例えば「源氏物語の中でエジプトのピラミッドに関する命題の真理値は決定できるか」といったセンセーショナルな問題提起ができることから、とっつきとして面白い。そういえばこのブログでもゴジラのリアリティーがどうのって書いたけど、あれもフィクションの哲学の一部であると言えるだろう。そんなこんなで僕もいつのまにかどっぷりハマってしまった。だからこの本も読んでて面白かった。

でも、特に「フィクションの中の真理 truth in a fiction」の章を読んでる時に思ったことなんだけど、これってやってて意味ある哲学的議論なの???と疑問を抱いてしまった。このジャンルは、先ほどの源氏物語ピラミッド問題(補充の問題)や、物語内での矛盾の問題、そして例えば「ハリーポッターの髪の毛は偶数本である」といった非言及命題についての真理値の問題などを抱える。主要な論者には可能世界職人のデイヴィッド=ルイス、信念説のカリー、そして「ごっこ遊びの理論」を唱えるウォルトンなどがいる(らしい)。

いちいち話の道筋や歴史を書き連ねているわけにもいかないのでずばり感想を言うと、端的に議論が細かすぎてちょっと微妙だ。というのも、物語というのは星の数ほどあって内容もものすごく多種多様。どんなによさげな理論を構築しても、結局どこかに反例が見つかってしまう。さらに困ったことには、物語は新しく生産されている。つまり、わざと反例になるような形式を持ったものを意図的に作ることさえ可能なのだ。(本の中でも、いやまたよくいろんな事例をみつけてくるもんだなぁと逆に感心してしまった)

うーん、これって意味あるのだろうか。哲学というのは理想的には、ある理論や体系によってそれが扱う事柄全体を網羅することを目標にしているというのが恐らく一般見解だし、僕もまあそう思う。それに対してこのジャンルでは、個別に生成されるフィクション作品への個別的説明付けという要素が強すぎる。もし哲学はアドホックで構わないという主張があるなら、それは哲学不要論のことじゃないのかしら?だとしたら、このジャンルって存在意義どうなんだろう…………

想定される反論としては、その他のジャンルでも実は似たような状況にあるというのが浮かぶ。例えば科学哲学だって、科学がクオリアを表現するような今では想像のつかない言語を使用するようになったら、今の哲学の理論体系では追いつかないところもでてくるかも知れない。フィクションの哲学との違いはその「反例生産」の頻度でしかない。なら棒氏は科学哲学全般を否定するのか、いやそれは望むところではないだろう、と。

いや、そうじゃない。フィクションの場合は、その哲学に対する反例を「意図的に」生産できる。そして、科学理論と違って作品は作品であること自体に価値があるので、意図的な反例としての作品ももちろん、また分析されるべき立派な作品である。そういうわけで哲学者側もまた新しい形式に対応する理論を作って……、ってこれじゃただのいたちごっこの茶番じゃね?以上、再反論でした。

ここまで書いてきて、ごちゃまぜにしていたことがある。それは、一体僕が問題にしているのは「フィクションの哲学」全体なのか「フィクションの中の真理」なのかということだ。

これについては、一応後者だということにしておく。その他の分析法もなんだかいかがわしいところはある気がするんだけど、フィクションの哲学全体がオワコンだと決めつけるのはちょっと横暴すぎる。なぜなら、フィクションのあり方には非言語的な、視覚的、身体行為的なものだってあるし、そういうものに対してはまた(「フィクショナルであるとはどういうことか」みたいな)メタ的議論が必要だからだ。それにそっちの方は正直本を読んでていまいち理解できた気がしなくて、否定しようにもできないということもあります。

とにかくフィクションの哲学は面白い。しかしあまりにも事例ごとの分析や反例による批判がてんこもりで少しシラケる。

でも楽観的帰納法じゃないけど、もしかしたら突拍子もない新しい理論が出てきて、論駁しようのないフィクションの中の真理の説明ができるかも知れないよね。そうしたらおとなしく土下座して、こっそりこの記事は消しちゃう所存であります。

途中下車とかのよさについて

どうしても旅に出たい、しかしお金が決定的に、ない ―――こういう憐れな学生の強い味方が「青春18きっぷ」だ。

日本全国の普通列車に乗り放題で、5枚刷り11850円。首都圏を始発で出発すれば、たった2370円で北は青森県、西は山口県(裏技を使えば九州)まで到達できる。

こんないい話があるかよ!というわけで、学生の間にかなり18きっぷでの鈍行列車旅をやってきた。

とはいえ18きっぷ旅は、移動時間そのものや途中下車での街歩きを楽しむことができなければ、死ぬほど退屈だしかなり苦痛だと思う。ところがこのような旅の類型に慣れてくると、こういった目的地に至るまでのさまざまな「過程」が愛しくなってくるものだ。

3月、始発で上野駅を発って北海道に向かうと、1時間北上する毎に景色が冬に戻ってゆくのがわかる。乗り継ぎの待ち時間には小さな街を歩く。仙台では牛タン弁当を買う。岩手山を眺めれば天気は猛吹雪だ。北海道に渡ると川は凍りつき、車窓の水滴さえ氷の結晶になっていた。氷点下20度の音威子府という村でなぜか放り出されたりもした。あれはまじで寒かった。そしてとうとう日本最北端の稚内に丸2日かけて到達する。すごい達成感だ。

しかしいま、世の中の移動は「どこでもドア」にどんどん近づいている。密閉空間で均質な空を飛ぶ飛行機も、僕にとってはどこでもドアとさほど変わらない。旅のどこでもドア化は、予めガイドブックなどで得た情報を、実際目的地に直行し消費することで満足を得るという類型を強化するだろう。あるいは、人間同士の触れあいさえもがボランティアツアーなどという形で盛り込まれ、消費される。ここで旅は極度に「インスタント」な存在になる。便利で安全だし別に一概に悪いことと言いたいわけじゃないけど、僕は個人的にそれじゃ満足できないなと思ってしまう。

一方、この過程を大切にする旅 (それどころか、目的自体がはっきりしない旅) のあり方というのは、江戸時代においてしばしば爆発的に流行したお伊勢参りの頃から、その源流はあったようだ。

伊勢参り 大神宮へも ちょっと寄り」

という当時の川柳がある。伊勢参りという名目で旅をするものの、肝心の伊勢神宮には少し寄っただけ、ということだ。参詣用の手形で各地の関所を通過するはいいが、実際は道中の名所を見物したり好色が宿場の遊廓で金を使い果たして帰れなくなったりという有り様、なんてこともあったらしい。「予め設定された第一目的とは無関係な過程自体を楽しむ姿勢」という意味では、これらの話にも18きっぷ旅っぽさを感じる。楽しそう。

さて時代が下り、明治時代になると鉄道が登場する。夏目漱石は『草枕』の最後にこんなことを書いていた。

「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。[…]人は汽車に乗るという。余は積み込まれると言う。人は汽車で行くという。余は運搬されると言う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。」

うーん、漱石は余程汽車が嫌いそうだ。僕が飛行機などの「どこでもドア的存在」に対して感じていることを、明治人は当の鉄道に対して感じていたのかも知れない。峠の茶屋で食べる団子(※想像)や旅籠での人情話(※想像)といった古き良き旅の過程が鉄道によって失われた喪失感という意味では、わからないでもない。知らない街での途中下車や駅弁を買う楽しみという過程が飛行機によって失われつつある喪失感に似ているのではないか。

ここまで書いておいてあれだけど、僕は飛行機の旅も好きです。真冬にコートを着込んで羽田空港に向かって、クアラルンプールへと7時間半椅子に座って待つ。するとあら不思議、機体を降りれば突如熱帯のむし暑い空気に包まれる。あの瞬間の面食らった感じというか異国に単独ぶちこまれるわくわく感というか、そういうのも捨てがたい。まあ行けるものならどこへだって鉄道で行きたいけどね。

ほとんど引けなかったけど、講談社学術文庫に『旅の今昔物語』(沢寿次, 1981 講談社)という本がある。間違いなのでは?という部分もあるし少し古いが、通史的に古代から昭和後期までの旅の歴史が軽い語りで論じられていて、面白い。もし18きっぷ旅をすることがあれば、車内での暇つぶしにおすすめです。

内容には全く触れないゴジラ論

シン・ゴジラ』を観た。めちゃくちゃ面白かったので2回観た。

ヒョーーッ、蒲田のゴジラ、キモーーっ!ウオーーッ、というかめっちゃエヴァっぽいじゃーーん!イェーーイ、無人在来線爆弾、サイコーーっ!

あー楽しかった、おわり。基本的には完成品を数回観ただけで我が物顔で語りだすの、自意識という感じになってしまうのでやりたくない。だからあー、これはきっとこういうことなんだろうなという場面はいくつかあるけど、感想はこれくらい頭の悪いのでも許されてほしい。

で、これから凄まじくどうでもいい哲学っぽいことを書きます。無駄に長いので読まなくてもいいです。

全然映画の本題と関係ないんだけど、宣伝にあった「現実vs虚構」というキャッチコピーが気になって仕方ない。「現実」が東京の街並み、政治家や自衛隊などで、「虚構」が怪獣ゴジラで、それが戦うと言いたいんだろうとはわかる。けどこの「現実」のほうだって、映画の中の虚構じゃないか。だったら言葉は正確に、「虚構vs虚構」というキャッチコピーに変更にしよう!

…というのは冗談だけど、この虚構とフィクション作品のあり方はどうにも悩ましい。ひとつにはフィクション作品の中に登場するすべての事象は虚構であるといえるか。例えば作品内に出てくる法律は実際にある条文であり得るので、虚構と断ずることは到底できない。では実際に存在する自衛隊の兵器は?それを使う匿名の自衛隊員は………?

あと完全に虚構であるゴジラが現実味を帯びているってどういうことだよ。こんな具合にわかり砂漠が分布しており、いろんな哲学者がフィクションについて悩んで、可能世界意味論を持ち出したり、「ごっこ遊びの理論」、フィクションの非決定論、その他意味論や統語論からいろんな案が提出された。

とりあえず僕はゴジラの「現実味」がどこから来るのか考えた。またあのキャッチコピーからわからなさが始まったので、それに沿って考えた。

(後日補足:厳密に言えばこれは伝統的な分析哲学の課題ではない。なぜならそれらは主に言語的なフィクションについて検討しており、非言語的な「現実味」はむしろ美学の問題として扱われてきたようだからだ。とはいえ最近では言語行為論とかを持ち出して、メタ的な議論も始まっているみたい。まだ途中だけど、清塚邦彦『フィクションの哲学』参照。(後後日補足:「伝統的な分析哲学」ってなんだよという質問を頂きました。ちゃんと読んでくれている方がいるというのはちょっと気が引き締まる。答えとしては、すみません適当なこと言いました知りませんということに尽きます。哲学何もわかってないということが最近わかりつつある。))

まずあそこで「現実」と呼ばれているものをフィクションⅠ、「虚構」と呼ばれているものをフィクションⅡと名づける。すると『シン・ゴジラ』という作品自体の現実味は、第一にフィクションⅠの表現、文化的背景、設定などが限りなく実際の世界に似せてあること、つまりフィクションⅠのいわば「透明性」に由来している。しかしそれだけでは現実味の条件は満たされない。フィクションⅡは純粋な虚構なので、現実世界の範囲内では想定しにくいような設定が許される。しかしここで重要なのが、フィクションⅡがフィクションⅠに対して与える現象は、フィクションⅠの中だけで規定され得るものでなければならない。例えばフィクションⅡであるゴジラが「魔法を使って東京に虹色の雨を降らせる」などの設定があってしまっては、フィクションⅠ内にフィクションⅠで規定できない現象(ここでは虹色の雨)をあたえてしまうため、現実味はないといえる。ゴジラが体内で核反応しようとなにしようとゴジラの勝手だけど、東京の街はしっかり燃えたり崩れたりして、現実的なやり方で破壊されないと困るというわけだ。

そんなこんなで、ゴジラなどの純粋な虚構が「現実味を帯びる」ための条件は以下の二つである。

1、フィクションⅠが現実世界への透明性を所持していること。

2、フィクションⅡはフィクションⅠに対して、フィクションⅠが規定する形式の現象しか与えてはならないこと。

うん、これでひとまず満足した。春学期に分析美学の授業で読んでいた絵画の真正性に関するカルヴィキとかいう人の論文で、似たような話があった。たしか「一体、ドラゴンのリアルな絵とは何か?」という話だった(この話はあくまで論文の補助的な命題だった)。

僕がゴジラのキャッチコピーからつらつら考えた結論を当てはめれば、ドラゴンの絵のリアリティーは、ドラゴン(フィクションⅡ)がおかれた環境(フィクションⅠ)によって決定される。「環境」は、ここでは光の当たり方や反射の仕方など原始的な要素も含まれる。従ってこのような要素が現実に対して透明性を担保していれば、ドラゴンの背景が現実離れした悪魔の城であろうとホグワーツであろうと、本質的な問題にはならない。悪魔の城やホグワーツ(フィクションⅡ)が、さらにミニマルな透明性のあるフィクションⅠの要素、例えば樹木、水や空のあり方や光の当たり方、反射の仕方などに規定されていればよいのだ。当然、フィクションⅡとして扱われるべき要素が増えれば、その分リアリティーは減少する。だから、作品内にフィクションⅡ要素がゴジラしかない『シン・ゴジラ』のほうが、悪魔の城を背景に炎を吐くドラゴンの絵よりは現実味が多い。このように、地雷臭しかない純粋虚構自体の「それっぽさ」について触れないまま、作品全体としてのリアリティーに説明がつく。

あとはフィクションⅠの透明性を定義できればなんか面白いレポートができそうだ。ちょっとわくわくしてしまった。しかし今のところ発表する機会もなさそうなのでブログで独り言のように書きこんでみた。もちろんこれだけじゃ穴もたくさんありそうだが、ともあれこういう形式的でかっちりした思考が好きだ。退屈な学校への道のりがあっという間に過ぎたりする。やっぱ学校はちょっと遠すぎるけど。

以上、山手線で書いて小田急で手直しした小論文でした。

乗ってる山手線の列車が「有人在来線爆弾」になっちゃったら、ちょっと困るよね。

少しだけ人間味のあるマシーン

塾の個別講師をしている。今は大学受験を控えた生徒を持っているのだけど、今日彼が定まらない進路について「やっぱり学歴で恥をかきたくないし勉強頑張らなくちゃ」みたいなことをいっていた。

塾講師してる間はものすごーく優しくにこやかに振る舞うようにしているのだけど、そういうちょっとした言葉にはカチンときてしまう。学歴が理由なら大学の四年間絶対つまらないよ、つまらない四年間のために今から勉強漬けになるの馬鹿みたいだからやめちゃいなよ、みたいなことを今日も言ってしまった。そうはいっても周りの大人に学歴を期待されて高い学費を投じられて、そういう価値観を植えられているのだから、ここでそんなことを機嫌悪く言っても仕方ないよなぁ、と今になっては反省しきりだ。いつもその繰り返し。しかも生徒は「そうですよね……」としょんぼり納得してしまうのが尚更辛い。

僕は四年間続けているこの塾講師アルバイトが大好きだ。苦手な子が口を揃えて言う「文系は暗記」という固定観念を打ち破ってやるぞ、とそれなりに意志に燃えてやってきた。文章を読む楽しさをわかってもらえた気がするし、成績もかなり伸ばしてきた。しかしこういうことがある度にわからなくなってくる。

僕は一応誰もが知る有名大学に通っている。生徒は自分を目標として見てくれる。誇らしいことだけど、それは僕を「努力して勝ち組になった人」として見ているからだと思う。でもそれは屈辱にまみれた誤解だ。僕はちゃんとやりたいことがあって勉強して大学に来たつもりだ。勝ち組になりたいなんてモチベーションじゃなかったし、それだけで勉強できるほど真面目じゃない。やりたいことに勝ちも負けもないだろーが、と感情的になっちゃう。(こういう考えも結局親に由来しているのだけど。ちなみに僕は人生のどの段階でも塾というものに通ったことがない。) 

でも、端からみればやっぱり勝ち組なのかも知れない。ちゃんとした家に住んで、有名私立大学に親のお金で通っている。今の日本ではそれはとても恵まれたことになりつつある。僕は自分の努力以前に、いつのまにか勝ってしまっている。生徒のほうも高い授業料を払って個別塾に通わせるような教育方針の家庭なのだから、僕の置かれたような環境や大学のネームバリューは親御さんにとっても憧れの対象なのかも知れない。

さて、そんな奴が先輩面して勉強を教えてきたら、どんな気分だろうか。しかも呑気に「学歴だけが理由なら大学行くな」とか言ってきたら、どんな気分だろうか。自分なら耐えられないのではないか。そう考えるとなんだか胃がムカムカしてきた。 

もちろん、生徒にこんな個人的な悩みは言いたくないし言わない。自分はこの中途半端な立場では、勝ち組であり強い存在としての役割を演じなければならない。きっと求められているのはそういう存在だ。そうであるならせめて、僕はしっかり勉強をアシストしてちょっと身の上相談に乗るだけの、「少しだけ人間味のあるマシーン」にでもなりたい。マシーンなのでいちいちこんなことで悩まないでしっかり知識を伝授する、そしてただ少しだけ優しさ、厳しさといった人間味を演出する。そういう風になりたい。

おお、まじでどうしようもない結論だな。でもこの半端な立場に留まる限りそれ以上のことをできそうにない。

仕方ないから泡盛でも飲みます。個人的に泡盛にはメンデルスゾーンという感じがする。