色とりどりの棒

わかりたい

インド準備中

卒業旅行はインドにした。ヒンドゥーの国、カーストの国、カレーの国、ITの国、ぼったくりの国。

期待より不安の方が(断然)大きい。それでも、どうしても死ぬまでに一度は行きたかった。なんでなのかはよくわからない。「インドで自分探しの旅してきます」などと喧伝するのは気色悪いし、ヒッピーにもドラッグにも興味はないし、熱心な仏教徒でもない。ただ、ガンガーを眺めてぼーっとしたい。長距離列車に揺られてぼーっとしたい。だいたいそんな感じです。自分たちの勝手が通じるリゾート地に行って休息するよりは(それもいいけど)、せっかく旅に出たなら未知の世界をみたい思う。

とにかく日記をつけようと思い立った。

下準備。

ビザが難しい。申請書に書き込むことが多すぎる。そのうちいくつかは、あなたがパキスタンと何らかの関係を持っていないか、という項目だ。祖父や祖母までの家系にパキスタン人はいないか、パキスタンと仕事をしていないか、パキスタンパキスタンパキスタン。うーん、どこの国にもその国なりの事情というか問題というかがあるのだなあ。書類は一文字でも間違えると、最初からやり直し。僕の大学の近くにあるビザセンターに行ったら、2時間くらい書き直しと不合格を繰り返していた人が半ベソで、もう私にはわからない、と嘆いていた。

鉄道予約も難しい(というか自力では不可能)。インドの電話番号がないと予約ができないのだ。そんなものあるわけがない。ダミーの番号を入れればいいなどというサイトもあり、適当に入れてみたけれど最後の最後で行き詰まりました。そりゃそうだよね。そこまでに費やした数時間が虚しい。そうしている間にも、どんどん満席になってゆくのが確認できて焦った。結局前半の切符は代行業者に課金した。後半は現地でなんとかする。

事前勉強。

三島由紀夫の『暁の寺』は、タイのバンコクが主な舞台だが、インドのバラナシで啓示を受けたのだという。暁の寺と呼ばれるワット・アルンは、インドにも一緒に行く友達と一昨年に見学したことがあった。もちろん今回バラナシにも行く。だからこの作品には勝手に縁を感じている。三島由紀夫はあんまり好きではない。

沢木耕太郎の『深夜特急』も読みなおした。これも正直どうなの、と思うところはあるけれど、それでもやっぱり面白い。インド編は最初に夜のカルカッタについてしまうところが好き。外国の知らない街に夜に到着してしまうのは、本当に恐ろしいものだ。何度かそういう経験をした。著者のように道ずれでうまく高級ホテルに泊まれるなんて思ってはいないけれど、まあ窮地にたたされてもたいていなんとかなるものだ。なんとかなってくれないとこまる。なんとかなってください………。

インド映画の『きっとうまくいく』を観た。基本的にはコメディ映画で、けっこう笑った。内容もよかった。なんのために大学に行くのかということ。しばしば役立たずと罵られる文学部(しかも哲学専攻……)にいると、これは嫌でも考えてしまう問題だ。大学に通うのは純粋に学問のためか、それとも将来の成功のためなのか。現実はあの映画ほど単純な二項対立ではないだろうけれども、それでも僕の大学にいると、このことは少なからず如実な分断だったと思う。だからついつい、自分が悩んだり違和感を感じたことに当てはめて映画も観てしまう。でも日本よりよっぽど格差の激しいインドでは、また捉え方が違うのかも知れない。出世できるのかどうかは、想像以上に天と地の差なのかも知れない。そういう視点も頭の片隅において、現地に赴きたい。

中村元 訳『ブッダの言葉』を少しずつ読む。

「寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。」(蛇の章 五十二)

なんだか、しびれる。

 

 

モラトリアムは終わるけれど

大学生もあと1ヶ月だ。学生時代をモラトリアムと表現されると、いや勉強してたし団の仕事が忙しいこともあったし、なんて一瞬反抗的になったりする。でも後から考えれば、どういってみても僕の学生生活は間違いなくモラトリアムそのものだったということになるのかも知れない。行きたいところに行きまくり、弾きたい音楽を弾きまくり、飲みたい酒を飲みまくっていた。好きな勉強を自由にできた。それだけの時間と環境と友達があったおかげで(お金はなかったけれど)。

卒業したら時間に追われる毎日で、これまでみたいに楽しいことをする時間なんて全然なくなってしまうのだろうか。やってみないとわからない。でもまあ全然なくなってしまうということはないんじゃないかな、とも思っている。というか、それじゃ困る。遊んで暮らしたいといっているわけではないが、つまらないのは嫌だ。

小さい頃から親に、「好きなことをして生きるのは、他の人からは楽にみられるけれど本当はとても難しいことなんだよ」と教えられてきた。確かにそうなのだろう。難しいことだからこそ好きなこと(それがなんであれ)をするための努力を惜しんではならないし、なんというか、つまらなくなった理由を忙しさに押しつけてはならないな、とよく痛感する。新しい目標をみつけて、仕事も楽しめるに越したことはない。行きたいところには行く。弾きたい音楽は弾く。飲みたい酒は控えめに。僕みたいなぐうたら人間にとって、学生時代よりハードルは一気に上がるだろうが、やる気と計画性と少しの課金があれば、そういうこともある程度まではなんとかなるような気がする。だからこの先、お前は学生だからいいよなあとか、今よりあの頃は良かったなあ、とか言わないようにしたい。そう言う人を一概に責めることはできないが、自分がそうなるのはやはり面白くない。それに学生だって、大変なのだ。どんなときであれ現状があまりに良くないのなら、臆さずしっかり考え直して行動できるようになりたい。

 

でも本当はこういう抽象的な目標を立てるのは好きではない。何か大層なことをいっているようでいて、どこまでも空虚で無内容になりがちだから。具体的に、具体的にな。

梅の花が咲いて菜の花も咲いて、挙げ句の果てにほ~ほけきょ!みたいな音まで聞こえてきて、うわあ、モラトリアムの終焉が肌で感じられる。そうなると、随分ありきたりではあるけれど、こんなことをだらだらと考えたり書いたりしてしまう。弱いなあ。

なんか3月ってそういう季節なのだ。だから、どうか許してください。

 

 

音のサイレンと絵のサイレン

この世界の片隅に』について、局所的な雑感。こうの史代さんの漫画は以前『ぼおるぺん古事記』で初めて読んで好きになり、それから何作かは読んでいる。題材が素敵なのと、女の子が可愛いのと、背景考証が丁寧なのがよい(漫画なのに文献表がついていたりする)。でも『この世界の片隅に』は未読のまま映画を観にいったのだった。

映画はなんといっても、後半(漫画だと中巻あたり)からの空襲警報のサイレンが印象に残った。不吉な音の響きも現実味があるけれども、それより何度も何度も何度も何度も何度も誤報で鳴る空襲警報と、その度に防空壕に避難しなければならない消耗と疲労。単に生活を乱す存在として日常に溶け込んでゆく戦争、そしてある日突然現実となる空襲。実際は最初に街が焼かれたとき、当時の人はどんな目でそれを見ていたのかな。映画館は大音量なので、サイレンの表現は鑑賞者自身への物理的疲労の蓄積としても機能していた。さらにそれが作者の表現上の意図であるようにも感じた。偉そうな評論はできないけれども、少なくとも僕はそれでけっこう疲れた。

ところで音のでない媒体である漫画では、このしつこい警報はどう表現されているのか、それがとても気になって、映画館から出た足で買ってすぐに読んだ。相変わらず女の子が可愛いくて、背景考証が丁寧だ。それでやっぱりけっこう辛い。肝心のサイレンについては、ああなるほど、これはこれで「疲れる」表現だな、とは思ったのだけれども、やはり音による直接的な描写と紙面上の表現とはまた違う。だから、感じるのもなにか違う種類の疲労感なのだ。映画の疲労は物理的、漫画の疲労は長い読書によるもの。でもじゃあ映画の方が良いと思ったかというと、細かい人間の機微みたいなところが省かれていたりもするし、そういうわけでもない。もし原典の漫画を先に読んでいたら、映画のみかたも変わったのかな。まあそんなことはわかるわけがない。

帰り際にうどん屋さんに入ったら、なぜか「森のくまさん」等の他愛ない音楽が流れていて、なんでうどん屋さんで森のくまさんなのか、意味がわからなかった。そしてけっこうしょうもなかった。うどんはまあまあだった。

他愛なくいられることは大切なことだ。年中サイレンが鳴るようになってしまえば、しょうもないことや他愛ないことは追放されてゆく。世界は単色になってゆく。森のくまさんどころではない。

 

 

わかさぎが釣れないという日記

長野県の松原湖というところで初めての氷上わかさぎ釣りをしてきた。そもそも釣りということ自体をそれまで1度しかしたことがなかった。わかさぎ釣りには、主に凍結した湖に穴をあけて釣る氷上釣り、普通の湖で船の上から釣る屋形船釣りがある。氷上の方が雰囲気的に楽しそうだけれど、屋形船だと釣れる場所に案内してくれるので、その分釣果は大きいという利点はあるらしい。氷上は自由度があまりに高くて、ほんの少しの立ち入り禁止区域以外、どこで釣ってもいいしどこで釣ったらいいのかわからない。素人には全然釣れないという。氷は20㎝くらい削ると貫通した。

開けた穴の中の水は、雪と氷に蔽われて暗い。生きている蛆虫をぷちっ、と針にさして、ちょきっ、と切って、体液を流す。それをつけた糸を垂らすのだが、水深が深くてなかなか着底せず少し怖くなった。糸をちょこっと揺らして、わかさぎを誘う。揺らし方にもいろいろあって、ベテランは日によって使い分けるらしい。かかったとしてもその感触はとても小さく、風のなびきと区別がつかないという。というか、ほとんど風だ。

そんなこんなで1匹も釣れない6時間が経過したとき、かすかに、でも今までとは明らかに違う糸の揺れ方があって、引き上げてみると小さいのがひとつ掛っていた。なんというかほっとした。てんぷらにして食ったら、あっさり無くなってしまった。

翌日も日の出前に起きて粘った。-10℃くらい。早朝のほうがまだ少しは釣れるらしく、2時間半で2匹釣った。蛆虫が凍ってしまい硬くなっていて可哀想だったけれど、手でつまむと温まってすぐ復活した。でもその途端に針に刺されて真っ二つにされるのだから可哀想。あとは氷の上で酒を飲んで雪合戦をした。つまり僕は、2日合わせて3匹しか釣れなかったのだ。

わかさぎ釣りには、「まあいいや」という気持ちが重要なよう。ベテランでも釣れないときは釣れないし、それを特に残念がっている様子もない気がした。

帰りは小淵沢行の小海線に乗った。晴れた冬の小海線は本当に楽しくて、野辺山に向かってものすごい坂を一生懸命登る。金峰山が見え、やがて急峻で巨大な八ヶ岳赤石山脈も見える。鉄道日本最高地点の野辺山駅はしかし穏やかな場所で、牛がいてキャベツと天文台があるだけだ。

 

 

気になること抽象編

先日無事に卒論を提出して、どうやら卒業ということになりそうだ。お疲れ飲みやらお疲れ旅行やらをやって、ああ本当に終わったんだなと実感する。やったね。気合い入れて書いたら本文だけで30000字を越えてしまったのは、ちょっと膨らみすぎた。このブログにしてもそうだけど、短く簡潔にということには気をつけないといけない。

内容は説明ギャップをタイプB物理主義から無害化するというもので、これには2年生の時から興味があった。2年前期の心の哲学のレポートを読み返したら、骨格としては卒論とほとんど同じことが書いてあって、進化したのやらしていないのやらだ。でも案の定、卒論は書いているうちに気になることがいくらでもでてくるので、時間があれば勉強したいみっつのことまとめ、抽象編です。

①タイプBと知識論証との連関。

物理的一元論と概念的二元論の両立を認めるタイプB(特に現象概念戦略)にとって、メアリーの部屋など知識論証はいかにも中心的なトピックになりそう。なのに卒論ではほぼ触れていないので、そこら辺をもっと勉強したかった。僕は、物理的なものと「赤」概念の結びつきに必要な現象的概念をメアリーが持っていないことから、同一性に基づく消去的説明の、IBEによる正当化ということができないと思う。一方、タイプBなのでそのふたつの間にア・プリオリ概念分析はない云々。だから、メアリーは解放後きっと「どれが赤色か」がわからないのでは、という議論を展開したい。こんなに物理主義として弱い主張でもチャーマーズ陣営と対決できる論証はどんなものか。その辺はニダ-ニューメリンがおもしろそう。山口せんせいの旧事実-新様式戦略批判は退けられるか。あとジャクソンは自分でメアリーの部屋を提示しておきながらその後表象主義へと「背教」しているらしいので、そのあたりも。ドレツキとの結びつき。派生問題としての外科手術メアリー、ゾンビメアリー。

ア・プリオリ概念分析とクオリアの認識論。

ア・プリオリ概念分析がないということは本当に説明ギャップと置き換え可能なのか。これはかなり怪しいと思う。かといってチャーマーズが言っていたゾンビH2Oの消極的思考可能性の議論などは、それはそれで微妙。単に「もし君たちが正しくて、現象的意識以外の同一性にもア・プリオリ概念分析がないというならできるはずの思考実験は、想定するのが超むずい。むずいから駄目。むずいのは駄目。」でまとめているようにしか見えない。これでは反証になっていないのではと思う。結局なんで怪しいと思うのか自体にも結局わかり砂漠©が分布しており、もっといい説明がほしい。あとはある物事や分析がア・プリオリであるとは厳密にどういうことかについて。定義、論理、概念分析、表象内容など。

③プラグマティストになりたい。

卒論の内容は下手くそなりにプラグマティックな仕上がりになった気がする。あと、タイプA物理主義を取り上げて「説明ギャップを声高に主張するのは発展途上な神経科学の研究に対して有害だからやめるべきと彼らは考えていますよ」みたいなことを書いたときに、指導教官が「そういう種類の論証は純粋な哲学(説明ギャップとか)に対する批判になると思いますか」的なコメントをしてきた。ゑーー、てか純粋な哲学ってなんだよーー、とその時は結構もやもやしたのが印象に残っていて、そこからじゃあプラグマティストにでもなるかと思った。それと、IBEを使った論証をするにはプラグマティズムをしっかり知らないとやばそうだ。しかし、この思想とどこまで付き合うのかは問題。政治や文学に応用できると無条件に考えるのは危険そうだ。その辺の折り合いについて。ジェームズはイイ奴なのか。ローティって誰だ。ポストモダン文化左翼とは??哲学の死??南無阿弥陀仏??とは??

というわけで、卒業だというのに哲学がなかなかつまらなくなってくれない。もうおしまいなのに。でもまあ別に学校でしか学問をやってはいけないなんてルールはどこにもないわけで、幸い今のところ関連書籍は4000円くらい課金すればネットでポチッと手に入る。これからもゆるゆると「アマチュア哲学者」をやってゆきたい。ただ問題は、話し相手がいなくなるということ。あと哲学を心のノートの延長の類だと勘違いしている人が多くて残念。そういうのは主張と論証が区別できていないところに難点がある気がする。なんかなあ。「難しい言葉で話すな、気持ちがだいじ」みたいのやっぱり無理だ。そういう空気が蔓延してるところに過労死やらポピュリズムやらの原因があるようにさえ思う。

書くの飽きた。人の関係をもっと大切にしたい。それと、

誕生日を祝ってくれたひと本当にありがとうございました。とてもとても嬉しかった。

 

 

メリークリスマス

千葉県市原市の山あいにある某無人駅に、なんの縁あってか今年だけで二回も訪問する機会があり、まずは五月そして次は十二月に降り立ったのだけれど、一度目は春麗らかでとても風情があったのが、二度目では大量の電飾でこれでもかというほど駅は飾りつけられ、夕闇の穏やかな景色の中で圧倒的な存在感を伴って、大小さまざまかつ色とりどりの電球が点滅している。周辺はことごとくただの山あいの集落と田畑という感じで人家の明かりは数軒見あたるのみだし、小さな駅舎もやって来る汽動車もかなり年季が入っている上に、電飾の方はなにやら偽物くさい舞浜のネズミ氏等が中途半端に顔を光らせており、おまけに小さなちゃちい電子音で「清しこの夜」等が延々と流れ続けているのだった。

はっきりいって絶望的なセンスのなさなのだけど、これで興醒めしてしまったということは全くない。なんだか哀愁というか悲哀というかが濃密で、むしろなんとも言い表しがたいない気分になってしまった。この徹底的なゴテゴテから醸し出されるどこか素朴な悲哀は、狙って再現できるものでもないだろうし、貴重だ。それになんだか安部公房最後の長編『カンガルー・ノート』の死の場面を連想させるような雰囲気で、僕はこの小説のこの場面が全ての中で一番好きなので、内心ではむしろ感動しきりでした。

とはいえどういってみてもミスマッチすぎる電飾なのに、案外皆さんからの評価は高いのである。地元民と思われるおばさん等が、あら綺麗だわね、としきりに携帯のカメラ等に収めたりしていた(!!)。うーん、小さな鉄道会社の社員がクリスマスだと張り切って、少ない予算をやりくりして電飾を買ってきて自分達で飾ったのだろうか、それでいてお客さんにはけっこう喜ばれているみたいだということがわかった。そう考えるとなんかいいな、あたたかい話っぽい。そんなこんなも含めて、なかなか善い景色だったのでした。決して綺麗ではなかったけど。それに電気もかなり無駄じゃんな。節電しやがれ。

そういうどぎついのを観て以来、「渋谷や新宿などでイルミネーションを目にするとなぜか自然に笑いが込み上げてくる病」に罹ってしまった。なんか一つひとつの電球が粒としてしか見えなくなってきて、それが集合してできる全体像としての装飾が見えてこない。それで絶妙におもしろくなっちゃったんである。困った。

クリスマスですね。去年はイブに赤ワインをらっぱ飲みして二十五日は宿酔で学校に行き、そのまま食欲が湧かずに昼ごはんは学食でオクラのおひたしと味噌汁だけというありさまだった。楽しかった。さて今年はどうなるかな、なんでもいいけど遊びたい。でもやはり卒論と格闘なのかな。やっと半分まで書けたけど、オリジナリティーはここからなのでまだまだ時間がかかりそうだ。参った。

卒論は書くのに疲れると、よくwordの文章内検索機能を使って遊ぶ。ここまでの16000文字くらいの中で、「ギャップ」が99回、「同一」は66回、すでに書かれているらしい。ちなみに助動詞「である」は134回だそうな。つまり全体の約6%はこの3つの単語でできている。なんかわろた。

ところで今書いていて思いついたのだけど、「ア・プリオリとモッツァレラチーズのパスタ バジルソース添え」って美味しそうじゃないですか。新鮮な味がしそうだ。ア・ポステリオリはどうしよう、ムール貝と一緒にパエリアにしたいかな。コクがありそうだ。そんで赤ワインをらっぱ飲みしたい。ばーかばーか

いきなり暴言を吐いておしまい。

 

 

渋滞と妄想の親和性について

落ち着きを失っているので、またもや気晴らし。

以前浅草に車で行く用事ができたとき、用賀ランプから首都高3号線に乗ったのだけど、ゲートを通過した途端に「池尻で事故 渋谷まで60分」とかなんとか書いてある。

絶望した。

僕は渋滞が大大大嫌いで、環境にも財布にも精神にもとんでもない悪影響だと思っている。ましてわざわざ高速料金を払ってこのありさま、やるせなさしかない。本も読めないし酒も呑めない、それどころかトイレが近くなるのでコーヒーも迂闊に飲めない。話し相手もいない。クソかよ。

半ベソで三軒茶屋をやっと通過したとき、村上春樹の『1Q84』を思い出した。そういえばあの小説の冒頭で主人公のひとりが「Q」の世界に迷い込んでいくきっかけは、3号線三軒茶屋での絶望的な大渋滞の中で、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴いていたということにあるんだった。今ここで運転しながら「シンフォニエッタ」を聴いたら、Qの世界に行けるかなとか妄想して(絶対に行きたくないけど)、でもそのCDは持っていないので適当になんか置いてあったやつを流してみた。エモい。

結局まあブラームスのピアノトリオではQの世界には行けなくて、こうして呑気にブログとか書いているわけだけど、この時ばかりは自分が準ハルキスト※でよかったなと思った。普通に考えたらストレスでしかない3号線の渋滞なんかで、けっこうわくわくできたりする。(※あくまでも「準」であって、生粋のハルキストと話したら銃殺されそうになったこともある。奴らは思いの外凶暴だった。)

またある時は高校時代の友達と紅葉の箱根に遊びに行ったのだけど、その時は行きも帰りも最悪で、たった2時間温泉に入っただけなのに実に往復7時間運転するということになってしまった。通常なら往復2時間なのに。しかもみんな後部座席で麻雀してばっかりで誰も構ってくれないし、ちょっと酷いよなぁ。

隣を悠々と走る箱根登山鉄道が恨めしい。

帰りは夜も更けてきた頃に西湘バイパスの大磯付近でこの世の終わりみたいな渋滞に捕まったのだけど、その時は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』を思い出した。ティンパニが鳴って真っ赤な相模湾に巨大な使徒が出現し、西湘バイパスを逃げまどう車は大渋滞、みたいなカットがあった気がする。運が悪いと容赦なく使徒だかヱヴァだか公権力だかにぶっ潰されてそこに十字架が立っちゃったりする。僕は力なき被害者のひとり。エモい。

結局まあ使徒は現れなくて、こうして呑気にブログとか書いているわけだけど、この時ばかりはちゃんとヱヴァ観ておいてよかったなと思った。正直ちょっと楽しくなってしまった。いや別に楽しくなってはいないか。

やっぱり楽しいわけではなかったです。

ひとりで運転していて渋滞の時に求められるのは、妄想をするスキルだ。というか何もソースがない状態で想像力を膨らませるのって真面目に重要なことだと思うのだけど、スマホを持っているとなかなかそういう機会はないんだよな。渋滞の時間はスマホに逃げることさえも許されない珍しい時間だ。僕は子どもの時から半分(最近は1/3くらい)想像の世界の中にいて激しく独り言が多いような性格なので、案外渋滞のような究極の暇は上手にこなせるのか……。はあ、だからなんだ。

渋滞名所の「東名綾瀬バス停付近」にも「中央道小仏トンネル付近」にも、それぞれなんか物語を作って暇つぶしにしよう。いつか役にたつかもしれない。とはいえやっぱり渋滞は最悪だけど。

というかこの文章、全体的にきもいな。

あと卒論をやれ。