色とりどりの棒

わかりたい

すくずく

つい先ほど、泥沼に嵌まった。 

 

といっても精神の泥沼に嵌まったとかそういうことではなく、物理的世界、埼玉県加須市。農業用水路の横、蛙があわれげにないていて、遠くからのんきな防災無線が聞こえたりしている。そんないい感じの畦道を歩いていた。ところが道が途中から水溜まりになっていたのでこれを避け、やや踏み跡を逸れて右横に足を踏み出したところ、そこはすくずくの泥沼、焦げ茶色の深みになっている。見た目では全くわからなかったので呆気にとられながら、まるでスローモーションのようにゆっくりと深みに嵌まっていった。泥の中は虚無。

誰もいないのに、これはマジやばいやばいやばい、などといいながらそれまでは無事だった左足に体重を移動、その無計画さがさらに災いして左足まで一層粘度の高い泥沼に嵌まってしまったさまは、あほうとしか言いようがなく、もう本当に自分が嫌になった。進退窮まった次の一歩もやはり泥沼で、もはや再起不能となって「詩人になりたい」「水餃子の皮だけたくさん食べたい」などと建設的な思考を完全に放棄した。

 

悲しいことだ。

 

全然関係ないけど、部署内ではどうやら自分が真面目で頭がいい奴、みたいになっていることへの恐怖感がある。最初の数ヵ月で少しうまくやったくらいで、だからなんだというんだ。あほうがあほうをいつまでも隠し通せるはずもなく、いや仮に隠し通せてもそれはそれで釈然としない。人が当たり前にできることがなんとなくできていない、という感覚はいつも自分につきまとい、それのせいでいつかかなり不味いことになるんじゃないかと考えると不安で仕方ない。まあ同じ不味いことならば、誰かにたくさん迷惑のかかる失敗をしてしまうより、ははは、泥沼に嵌まりましたみたいな失敗の方が良いのかも。

今回の施策については、粗利と営業利益が云々かんぬんなので異議あり。再検討を求めます。閑話休題、先ほどすくずくの泥沼に嵌まりました。温かく優しい泥でした。ご確認よろしくお願いします。なんて。本題はどっちだ。

 

嫌だなあ。そうやって変なことはせずに、奢らず、焦らず、真面目にお仕事をするに限る。

 

 

 

ひとりごと、宇治拾遺物語へのリンクつき

僕の敬愛する町田康は『きれぎれ』で芥川賞をとっているけれど、その前にも『けものがれ、俺らの猿と』で最終候補まで残っていたことがあるようだ。芥川賞全集の該当巻を借りて後ろの方を読むと、一見して物語展開は支離滅裂、いや十回読んでもやっぱり支離滅裂なこれらの小説に、選考委員である石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけているカオスな風景がみられる。(目取真俊芥川賞をとっているので、やっぱり石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけており、やれやれコンテンツだった。)

 

芥川賞とかなんとか賞だから偉いとか読んでみる価値があるという意識は別に持っていないけれど、なんとなく町田康芥川賞をとるなら『権現の踊り子』とかの方がさもありなんじゃない??と感じる。それかいっそのこと『逆水戸』とかもその系列だと思う。でもこれはちょっと短すぎるのかな。

それともこういうのはまだテーマがはっきりしすぎていて支離滅裂さが足りなくて、つまりなんか病んでいなくて迫力がないということか。だとしたら随分不健康な選考基準だ。

後日補足:すっかり勘違いしていたのですが『権現の踊り子』は芥川賞後の作品だった。これじゃあ理屈があんまり成り立たない、ごめんなさい。

 

選考基準とか評価って、それ自体どういうことなんだろうか。よくわからない。なんであろうと興味があるのは作品自体だ。なんか難しい理由があるわけではないけど、好きな小説でもその解説書とかを真面目に読む気にはならないし、「これはこういうことを伝えたかったのだ」とかどうでもいいかなーと思ってしまう。それは単なるあなたの解釈でしょって感じてしまって、ちゃんとした考証があってもそんなに重要度が理解できない。本当によくないことだ。

最近、町田康宇治拾遺物語を口語訳したのが載っている『日本文学全集8』を遂に買ってしまった。想像を絶する馬鹿馬鹿しさに電車の中でも笑いを堪えることが出来ずにいる。

 

ところで、自分でもいま何を書いているのか全くわかっていない。気持ちがけっこうへとへとだ。へとへとの時はなんでもいいから何か文章を書いてみるといい気がする。だから適当に書いた。しかし、いかんせんスマートフォンで書いたので、目の奥が一層へとへとになった。いみじきことだ。

 

宇治拾遺物語、サンプルで一話読める。

https://kawadeshobo.tumblr.com/post/129340109097/

町田康訳  『宇治拾遺物語』より

「奇怪な鬼に瘤を除去される」

 

これも十分しょうもないけれど、しょうもない下ネタがないだけまだまとも。

 

 

阪神高速14号高架橋

通天閣を抜けて、北側から南へとアーケードに入る。

さっきまで溢れそうなほどいた観光客はうそのように消え、カラオケ付き居酒屋からヴィブラートの利きすぎた下手な歌声がこだまし、どこからともなく不思議なにおいがしてくる。大阪には至るところにアーケードがあるが、山王のアーケードは明らかに雰囲気が違う。少し緊張して、せき立てられるように歩く。しばらく行ってから左に曲がれば、両脇には提灯が並び、桃色の光がぼうっと光っている地帯だ。遂に来てしまった。

一方、大阪阿部野橋駅から西方向に入ろうとすると、それは突如現れる。綿密な都市計画に基づいて最近建てられたのであろうマンション群の坂を下ると、いきなり視界が開ける。なんの前触れもなく、いきなりそこにたどり着いてしまうのだ。あまりの唐突さに、お互いの区画がもう一方の区画を決定的に無視し、存在をなかったことにしているようにさえ思える。

 

花街に入ると、いろいろなものをなかなか直視できない。料亭のひとも、道行くひとも、なにか目があってはいけない気がした。呼びの甘い声(しばらく耳に残りそうだ)、どこからともなく聞こえる15分タイマーの音………自分がここを歩いていても不思議ではなく、いやむしろ充分ここにいてしかるべき部類の者だということを、強く意識させられる。滑稽すぎだ。あの隙のない笑顔、その時どんな気持ちなんだろうか………。

ガンジス河がバラナシの喧騒を静かに見守っていたように、阪神高速14号線の高架橋が花街を見守っている。けれども高速の高架橋は、街の中心を貫きながら街の営みとは全く関係性を持たない。ただ、そこを貫くだけなのだ。高速道路を車で走っているだけでは、下の街がどういう街なのか、まず気づくことはないだろう。そこにも断絶があるのだ。

 

それで100mくらい歩いたらなんかへとへとになってしまって、普段ならまず買わない甘い缶コーヒーを買って高架橋の下で飲んだ。それからすぐ帰ってしまった。それで予定どおりだ。ここで1万円を使う15分間が、一生来ないといえるだろうか。よくわからない。

 

 

初任給や初乗り運賃とはあまり関係のないこと

就職して、毎日7時に起きるようになって、髪の毛を欠かさずいじくりまわして、欠かさず水筒にコーヒーを詰めて、少しはタイピングが早くなって、でも相変わらずmicrosoft officeは僕の言うことを聞かなくて、支給されたiPhoneは使い方がさっぱり分からず笑われて、でも笑った奴はwindowsがさっぱり分かっていなくて、新しいシャツを買って、眼鏡とスーツとリュックも新調したいけれどそれはまだで、まあ人にはけっこう恵まれている。

そういっているうちに初任給などをゲットした。高いようで安く、安いようで高い。確定拠出年金とか将来の費用とか諸手当とか考えていたら、感慨などは一瞬で雲散霧消、残ったのは長すぎるこの後の人生についての淡白な数字の計算なのであった。これから世界がどうなっちゃうのかわからないし、日本も、自分も、どうなっちゃうのかわからない。メメント・モリだ。

 

学生時代のこと。

あの頃はほとんどをお出かけと音楽に使ってしまったので、お金がなさすぎた。だから初乗り運賃130円を節約して何キロも歩いたり、タクシーはひとりなら絶対に使わないと決めていたりした。使ったら昼ごはん抜きとか。あほだったけど、あほにはそれが楽しかったのだ。定期券を使ってただで都心に出られるようになると、それが逆に寂しかった。

今のこと。

結局この前も、天気のいい日曜日に原宿から目黒まで歩いた。目黒川の作った河岸段丘を下って、小さな坂の名前とかを知って、けっこういいコースだ。これで154円の節約。なんだか進歩していない。それでも長い距離をさくさく歩くことは、何か懐かしい行為になってゆく。逆にタクシーをお構いなしに使うことは、何か決定的に自分をおじさんにしてしまう行為だという直感がある。一気に老け込んでしまいそうで怖い。お金はできたのに相変わらずこんなけちくさいことをしているからには、やはり過去の忘れがたさがある。ぼろいリュックの重みとスニーカーから伝わる地面の感触に安心してしまう。

山崎ナオコーラの小説に、昔は自転車にふたり乗りしていた恋人とお互い立派な大人になって再会したところ、疲れたからタクシーを使おうと何度も言われて「しょんぼり」する、という場面がある。寂しい。寂しいな。どうすることもできない時間の流れは、そういう小さなところに最も凝縮されてゆくのかも知れない。

別に学生に戻りたいとかというわけではない。もっと勉強はしたいけど、今も今でよいし、昔は良かった主義は危険だ。だから今は、あほみたいに歩いて、しっかり仕事して、本を読んで、しっかり仕事してお金ためて、やっぱりなぜかあほみたいに歩く。歩きまくった後のビールは最高。

 

そんな日常を過ごすのがしばらくの低すぎる目標です。目標達成に向け日々邁進いたしますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

石拾い

学生最後の一日。小雨、微妙に寒く、かといって凍えるほどではない。今日は暗いし、僕の部屋はそもそも朝の光が届きにくく、また寝坊した。

新生活、に向けて準備することは多くなかった。そしてどれも3月前半までには終わってしまった。引っ越しもないし、役所に届けるべきことも済んだ。卒業式も旅行お別れ会もすでに過去になり、最後の日は特に何もない日だ。新生活、とはかけ離れた普通の一日。

新生活、といってやたら発破をかけてくるのはちょっと商業戦略っぽいにおいがして、このことばを使って清々しい気分になったりするのはなんか悔しい。頼んでもいないのに「新生活応援グッズ」の広告がどんどん来て、人の生活を勝手に新しくするなーー!!などとその度に家でわめいている。あほだ。これからの生活を果たしてどれだけ新しいものと感じることができるのか、やってみないとわからない。楽しみ。

何かを書きたいのに、驚くほど内容を思いつかない。

だらだら雑誌を読んでいたら、青森県に石拾いの聖地みたいな海岸があるという記事があった。まあ聖地といっても別に聖地ではなく、奇石がたくさん落ちているとかというわけでもないらしい。特別なものは何もない。石拾いでは、自分がいいと思える石を拾えさえすれば、それだけで価値になる。特に目立った石や珍しい石でなくても、それをなんか良いなと思って持って帰れるくらいの大らかさが、ここでは大切なのだ。自分はなぜか、うずらの卵みたいなやつが昔から好き。

僕にとっての石拾いの聖地は、幼い頃からよく行った小田原の海岸だ。住宅地を抜けて、西湘バイパスをくぐって、がらんとした海岸に出る。海は別に綺麗でもないし汚くもない。うずらの卵石を拾ったり、海に投げたり、それからつげ義春の『無能の人』を少し思い出したりして、苦笑いする。無能の人は石ころに石ころ以上の価値を見いだそうとしたから失敗したのである。あほだ。本当に無能だよなぁと考えながら家に帰る。そんな日が少しあれば、何が大丈夫なんだかわからないけれど、とにかくこの先も大丈夫だと思う。

何もない日、石を拾いたくなる日。小雨、微妙に寒く、かといって凍えるほどではない。新生活、が、始まるのだろうか

 

 

インド日記 その三

地獄の夜行列車、コルカタ

 

ガヤーからコルカタへの夜行列車は、人生で五本の指に入るQOLの低さだった。まず20時発予定の列車がいつまでも来ないので、駅のホームで雑魚寝する。どこへ逃げてもすぐに蝿と蚊が沸いて、痒い痒い痒い。4時間半の遅れでやっと入線した列車は超満員で、停車する前から降りる人と乗る人が扉に群がって怒鳴りあい、近より難い大混乱になっている。人ごみを掻き分けてなんとか洗面台の下の僅かな一角を確保した我々は、そこに新聞紙を敷いて布団代わりにし、コルカタへの9時間の乗車に耐えることにした。もうこれが最低。目の前は塵が散乱しているし便所臭いし、濡れた靴で新聞紙を踏まれるし、乗客は深夜でも大声で喋るし、車掌になんか厳しく注意されたらしいけどヒンドゥー語なので全く聞き取れないし、頭上で痰を吐かれるし、建てつけの悪い窓からは冷気がどんどん入ってきて、かなり寒い。こんなときはつい家の快適な布団を想像してしまう、でもそれは禁物だ。惨めという感情を棄てて、どの体勢が最も楽かだけを考える。いつかは着くのだから頑張る………(でもいつ着くかは不明)。結局この夜行列車で、持っている服の多くにその不潔な臭いが移ってしまった。もうどうにでもなれ。

ちなみにこの移動、運賃は110ルピーくらいだったと思う。異常な安さだ。同じ列車でもエアコンの効いた寝台車は1200ルピーくらいで、10倍以上の差がある。そして間違いなく、運賃に見合う10倍以上の快適度があるだろう。きっと寝台では10倍の値段の服を着て、10倍(どころではないか)の年収を得る人が、何の不自由もなく寝ているのだろう。うーむ。対照的に、この110ルピーで乗れる車両は20両中たった2両と、乗客数に見合わない少なさ。どの列車も空きっぱなしの扉から人がこぼれ落ちそうなほど混んでいる。つまり、お金のない人たちが詰め込まれて僕たちのような環境に置かれるのは折り込み済みなのだ。うーむ。しかしこの安さなのだし仕方ない部分も………もやもやする。とにかくコルカタには4時間遅れで到着した。

 

コルカタは、地球の歩き方・書籍・先輩旅行者などが口を揃えて、喧騒に満ちた激しい街だと評する。ベンガル語の怒鳴りあいはしょっちゅうで、交通事故は頻発、道端には乞食が並び、麻薬売買が横行し、云々、と、事前にこれだけ脅されればかなりびびってしまう。でも実際いってみると、案外大丈夫というかわりと快適な街だった(件の夜行列車で感覚が狂ったのかも)。まずインドにしては塵が散乱しておらず、それを漁る牛もほとんどいない。従って牛糞もない。これで街全体の臭気はかなり抑えられる。次に、路面電車とバス網が発達していて、初乗り5ルピーの便利な地下鉄もある。市内の移動のためにいちいちリクシャーと交渉する根気が必要ない。これは大きい。確かにひどく愛想が悪くて、飲食店はおもてなし概念が皆無、つり銭を投げてよこすし、ベンガル語で怒鳴られるように何かを指示されたりしたけれど、別にそんなのは構わない。

印象的だったのは、コルカタには観光用ではない人力車がまだ残っていて、手の鈴を静かに鳴らしながら痩せた老人が古びた車を牽いてゆく光景。僕は老人の言い値の300ルピーを60ルピーまで粘って乗った。交渉は、まず300ルピーと言われたら、じゃあいいや他を探すよ、などといって立ち去る演技をする。そうすると、サー!ハウマッチ!などと叫んでくる。まずは30くらいから始め、それは無理だ!といわれ、たいてい50から80くらいに落ち着く。明らかに重労働のはずの人力車や自転車リクシャーのほうが、エンジン付きのオートリクシャーより全然安い。運転手の雰囲気もずっと素朴な感じがする。みんな年老いて見えるのはこの肉体労働と生活のせいで、実はずっと若い人もいるのかも知れない。

たった240ルピーのために粘り、生活費をこの老人力車夫から奪った、などと否定的に考えるのはもうやめた。300ルピーだって多くの日本人にはそこまでの大金とはいえないけれども、だからといって今ここで300を払うことは、逆に彼に対して失礼な気さえした。まさか300ルピーなわけがないとわかっているのに騙された振りをするのは、どこか傲慢さがある。

バックパッカーやヒッピーたちにとって、地球の底みたいにいわれがちなサダルストリート。オートリクシャーの運転手が、ドコイクノ~?アナタハッパいるよね~?、なんて絡んでくる。ハッパ入りラッシーは弱い順に、ライト、ミディアム、ストロング、マハラジャというなんてことを喋っていて、あほか。その後、前日にストロングをやったという日本人とも話した。強烈な二日酔いみたいになるらしい。そうですか。

それにしても運転手兼麻薬密売人とは珍しい組み合わせだ。日本語は誰に教わったのだろうか。一度売れるといくら儲けるのか。その元気で軽妙な口調に、60ルピーで乗った老人力車夫の疲れた表情が重なって、少し苦々しかった。

 

 

インド日記 その二

バラナシ、ブッダガヤー

アーグラーからバラナシへの夜行列車は、現地の旅行代理店に予約依頼をしてあった。だからその晩はひとまず安心というはずだった………。しかし乗り込んですぐに、その切符が一日遅い列車のものだということが発覚し、途方に暮れてしまう。仕方ないのでその場で立席切符を買い、空きっぱなしの扉の前で新聞紙を敷いて雑魚寝しようと準備していた。するとなんと寝台にいた若いインド人が、自分の席を使えといってくる。自分は友達と同じ寝台にいるから構わない、と。

これは本当の親切心だったようだ。まだ旅の始めだったので、そんなうまい話があるわけないと疑心暗鬼になっていたけれども、これもきっとインドのペースということなのだろう。はじめから何もかもを疑ってばかりいたのが、少し恥ずかしくなった。

 

母なるガンジス河に面する街バラナシは、三島由紀夫にいわせれば「神聖な藾」にかかっている。インド中から巡礼者と死者が訪れ、ガンジス河に浸かる。露天の火葬場があるマニカルカーガートという河岸では、何ヵ所からも煙が上がり、あたりは焚火の香ばしい匂いになっていた。

マニカルカーガート。焚火の周りでは牛が暖をとっている。火葬職人は火がよく燃え渡るように、薪と遺体とを棒で突き回している。みていると胡散臭いおじさんがやって来て、一体燃え終わるのに三時間かかる、一日に三百体を燃やす、あれが頭蓋骨だ、などと勝手に説明を始める。それで法外なガイド料やら薪代やらを請求してくるのだ。ドネイション?ドネイション?、と下手な英語でせびる声はなかなか耳から抜けない。遺族は身内の死にあまり悲しむ様子もなく、暇そうにスマホをいじったりしている。世にも奇妙な光景だ。

そこへまた新しい遺体が運ばれてきた。薄い布にくるまれた遺体は、まず鐘の轟音・叫び声などと共に寺院からガンジス河に運ばれて、聖なる水に浸たされる。それから火葬職人によって薪の上に手際よく載せられる。喪主が意外なほどあっさりした手つきで点火すると、火はあっという間に全体に燃えひろがる。僕のいたところからは、遺体の足がよく見えていた。火の中で、まず覆いの布が燃えてなくなり、次に足はじゅうじゅうと音を立てながら真っ赤に爛れて、黒い斑点ができた。呆然とみていると、いつの間にか肉は熔けてなくなり、骨だけになって、ばさっ、と落下した。夕闇の中で火はひときわ明るくて、僕も三島のように何かの啓示を受けられるかとも思ったけれども、結局ほとんど無感情にただ眺めることしか出来なかった。その後は普通に夕飯を食べることができたし、それから普通に寝ることができた。そうできてしまったこと自体に、すこし罪悪感を感じた。

とにかくバラナシはとんでもない街だった。死者も、生者も、その糞尿も、イカサマ師も、乞食も、リクシャーも、野良犬も、野良豚も、野良牛も、その糞尿も、正体不明の塵と汚水も、全てのものが飽和していた。その横を巨大なガンジス河が音もなく流れている。不浄の地とされる対岸は、全く何も存在しない砂地だ。ヒンドゥー教を知らない者としては、そちらが神聖な清浄の土地に見えてしまうが、そうではないらしい。

こうして一日経って文章を書いているうちに、なんだか次第に大泣きしたいような気持ちになってきた。月並みな旅行者の感想なのはわかっているけれども、後になってじわじわと骨に染みわたる光景だった。

 

ヒンドゥーの聖地バラナシの次に訪れたのは、仏教の聖地ブッダガヤーブッダ菩提樹の下で悟りを開いた場所。ブッダガヤーは小さな村だが、アジア各地の仏教寺が集結していて、見比べるのが面白い。悟りを開いたまさにその場所で熱心に祈りを捧げているのはミャンマー人や日本人といった外国人も多く、インド文化の中心のひとつでありながら、逆説的にも少しインド離れしている。静かだった。

村は(これまでに比べれば)とても綺麗で、歩きやすい。それに夜行列車の親切なインド人、それにバラナシのイカサマ師等にまみえまくって次第にインドに慣れてきたので、通りすがりの人と軽く挨拶を交わすことができるくらいにはなった。ペースに慣れてしまえば、街歩きは一気に楽しくなる。わからないことは気兼ねなく聞く。困っている人は助ける。嫌なことははっきりノーという。鉄道はどうせ時間どおりには来ない、チャイでも飲んで駅でだらだらしよう。多少のゴミは道端に棄ててしまえ。

きっとうまくいく。