色とりどりの棒

わかりたい

文章の練習

その頃は大学内でもテレビ局関係者が「東大生の中で特別に頭のいい人を探しています。ルービックキューブを一瞬で解ける、一瞬で暗算できるなど」

とチラシを配っていたりして、ひょっとしてこの人達学問がなんなのか知らないまま大人になっちゃった人達なのでは、という諦めムードが漂ったりしていた 

@tkmtSo

という結構バズったツイートを遅まきに見つけて、それは酷いなと笑ったのだけれど、ところがなにせ僕自身がもはや学生でも学者でもなんでもなく、「学問とはなにか」などと問われても自分にだってよくわからない、とも思っている。一方で「学問ができること=ルービックキューブを一瞬で解けること」では少なくともなさそうだという確信もある。

ルービックキューブの才能の持ち主は、あるいは引用ツイート前半でいう「頭のいい」人には当てはまるかもしれない。トリュフを一瞬で嗅ぎ分けられる特定の豚さんが「鼻がいい」と形容されるように。けれど頭のいいことと学問的に優れていることは、近いようでずれている。そこをごっちゃにしていては、学問も大学組織もどこまでも実態のないものになってしまいそうで怖い。だからあのツイートも、いいたいことは超わかるのだけれど、前後に少し危ない飛躍があるような気がする。学問はもともと「頭のいい」ことと違って、ボキャブラリーを落とした表現をすれば「かなり頑張らなくてはならない」という必要条件的な特徴があるということを学んだ。たくさん文献を読むとか発表するとか、とにかくいろいろな作業が必要で、所与の才能とかひらめきだけでどうにかなるものではなさそうなのだ。

 

僕自身は哲学専攻だったので、一番身近な学問といえばもちろん哲学だった。哲学は何か特別なものだ、哲学者は何か一般的ではない人だ、という観念はかなり人口に膾炙しており、そのお陰で大学入学時には親にやんわり反対されるなど、やはり風当たりが弱いわけではなかった。

でも例えそれが哲学であっても、実直に真面目に「学問」をしていることは他の分野と少しも変わらない。たくさん勉強したからといって別によくいわれるような変人にもならないし。(いい意味で)変人はまあもともと変人なのだから、それはそれ、これはこれだ。

 「東大生は超やばい天才」「慶應生は口説きマスター」といったイメージが蔓延しているせいで当事者は結構それで苦労したりするのと同じで、哲学の人たちも随分お粗末で適当なイメージがこびりついてしまっているのは可哀想だ(と企業社会にでてからますます感じる)。

 

まあ哲学の話はいい。実は最近、よく仕事で歯科の学会に行く。これが意外にもおもしろくて、自分の医院でこんな症例がありました、みたいなのをパネル展示して不健康そうな口の中の写真が100枚くらい並んでいたり、あっちこっちのブースで歯医者さんが論文を発表したりしている。彼ら彼女らはまた、かなりの勉強熱心、つまり学問熱心なようだ。

それで当たり前だけど、歯科は「治す」という明確な目的がある。だから理論と(治療という)技巧的な部分が強固にリンクしている。哲学はそのあたりのリンクがかなり薄いから、みんなからあいつらよくわからないなーと思われているのかもしれない。歯科(やその他の)学問と違って、「文字の世界から外に出る」ようなアウトプットとしての成果が、わかりにくいのは事実だと思う。でもだからなんだっていうんだ。いろんな形の学問があれば、いろんな形のアウトプットがある。わかりにくいものを馬鹿にしてはいけないです。

 

と思った。

これ、なんの話なんだろうか。今日は少し早めの通勤電車に乗りながら考えた。思うに、すごく文章が下手になってしまった。これはそのリハビリとして書いてみた。やっぱり勉強したい、頭が痛い。低気圧だ。

 

 

「自由に、しかし楽しく」のこと

ブラームス交響曲第3番がたまらなく好きで、多分1日おきくらいに聴いている。ところでこの交響曲、冒頭の F-A(s)-F という音列には、ドイツ語の頭文字としてちょっとした意味がある(らしい)。彼の座右の銘になるとのことだ。それは、

"Frei Aber Froh"

恐らく日本語の定訳は「自由に、しかし楽しく」。いい言葉だなあ。

  

この F-A-F という音列は、ブラームスの楽曲にはたくさん出てくる。で、たしかにいい言葉だけれども、なんかこの接続詞「しかし」がしっくりこない。「自由に、そして楽しく」とかの方が日本語としては自然だと思う。

果たしてこの違和感、日本語訳がよくないから起こるのか、それとも "Frei"-"Froh" を "aber" で繋ぐのは、ドイツ人としてもやっぱり なんか変だなああ という感じがするものなのか、気になってきた。もし後者なら、真面目なイメージのブラームスも案外適当なのかも、となってしまいかねない。

とりあえずぐぐってみると、似たような疑問を持っている方(日本人)はけっこういるようで、似たような記事がインターネット2017に転がっている。やられた。

読んでみると、どの記事も「F.A.E.ソナタ」との関連で書いてある。

F.A.E.ソナタ - Wikipedia←F.A.E.ソナタについてはこれです。

このソナタの F-A-E 音列は、彼の友人ヨアヒムさんの座右の銘にちなんでいるということだ。それが、

"Frei Aber Einsam"

「自由に、しかし孤独に」。いい言葉だなあ。

 

とにかくブラームスはこの "F-A-E" をもじって、"Einsam" の「ミ」を "Froh" の「ファ」に変えたんだそうな。ちょうど音響的にも F-A-F という音列は明るいし、F-A-E はちょっと孤独な雰囲気がしなくもない。前者での Frei はまず F-dur のⅠとしてしかとれないけれど、後者での FreiEinsam の影響で a-moll のⅥに聞こえるからだ。まあそれはどうでもいい。

でもたしかに、"F-A-E" のように「自由に」と「孤独に」を接続詞「しかし」で繋げるのは日本語としてもしっくりくる。「自由に、しかし楽しく」は所詮それのもじりなんだから、多少の違和感には目をつむるべし。という解釈はあり得る。

この「もじり重視説」は、「ドイツ人も F-A-F の "aber" には違和感を持つということ」の消極的論拠にはなりそうだ。でも積極的論拠ではない。あの気難しいブラームスおじさんがそんな適当なことするかなあ、やっぱりこの "aber" は案外自然な語用で、日本語訳の気がきいていないだけではないのかなあ、という疑念はまだ残る。まあ実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

気になるものの、はっきりいってこれ以上真面目に調べるのは面倒くさい。まあとりあえず独和辞典だけ引いてみた。最近はほとんど使うこともなく埃を被っていたので、くしゃみが出た。そうしたら、"aber" の項に突破口(?)が。

aber[...]

①しかし、でも、ところが [...]

②(「しかし」の意味が薄れて)そして、それから、一方

△Der König hatte zwei Sönne, der eine heiß Karl, der andre aber Johann. 

 その王には息子が二人あり、一方はカールでもう一方をヨハンといった 

[...]

ドイツ語は最大の留年直結科目だったくらいなので語法について全然自信がないけれども、 "F-A-F" の aber もこの②で訳したらいい感じにならないだろうか。そうすれば、「自由に、そして楽しく」。よい。"aber" にこんな使い方があったのは初めて知ったけれども、それなら「自由に、そして楽しく」と訳しても極悪な訳というほどではないのではないか。これがありかなしか、実際のところは身近なドイツ人に尋ねてみればよいが、身近にドイツ人がいないという罠。

 

結局のところブラームスがどういうつもりだったのかわからないけれども、とにかく "F-A-F" において「しかし」という接続詞が生み出す違和感や屈託みたいなものは、消そうと思えば消すことができること。久しぶりに辞書を引いたらちょっとした成果があったこと。それでなんか少し満足した。

"F-A-F" か "F-A-E" か、選ぶならどちらがよいかと考えると、どちらも魅力的な言葉だが、やはりずっと孤独なのはたまに辛くなりそうなので、前者。

 

 

すくずく

つい先ほど、泥沼に嵌まった。 

 

といっても精神の泥沼に嵌まったとかそういうことではなく、物理的世界、埼玉県加須市。農業用水路の横、蛙があわれげにないていて、遠くからのんきな防災無線が聞こえたりしている。そんないい感じの畦道を歩いていた。ところが道が途中から水溜まりになっていたのでこれを避け、やや踏み跡を逸れて右横に足を踏み出したところ、そこはすくずくの泥沼、焦げ茶色の深みになっている。見た目では全くわからなかったので呆気にとられながら、まるでスローモーションのようにゆっくりと深みに嵌まっていった。泥の中は虚無。

誰もいないのに、これはマジやばいやばいやばい、などといいながらそれまでは無事だった左足に体重を移動、その無計画さがさらに災いして左足まで一層粘度の高い泥沼に嵌まってしまったさまは、あほうとしか言いようがなく、もう本当に自分が嫌になった。進退窮まった次の一歩もやはり泥沼で、もはや再起不能となって「詩人になりたい」「水餃子の皮だけたくさん食べたい」などと建設的な思考を完全に放棄した。

 

悲しいことだ。

 

全然関係ないけど、部署内ではどうやら自分が真面目で頭がいい奴、みたいになっていることへの恐怖感がある。最初の数ヵ月で少しうまくやったくらいで、だからなんだというんだ。あほうがあほうをいつまでも隠し通せるはずもなく、いや仮に隠し通せてもそれはそれで釈然としない。人が当たり前にできることがなんとなくできていない、という感覚はいつも自分につきまとい、それのせいでいつかかなり不味いことになるんじゃないかと考えると不安で仕方ない。まあ同じ不味いことならば、誰かにたくさん迷惑のかかる失敗をしてしまうより、ははは、泥沼に嵌まりましたみたいな失敗の方が良いのかも。

今回の施策については、粗利と営業利益が云々かんぬんなので異議あり。再検討を求めます。閑話休題、先ほどすくずくの泥沼に嵌まりました。温かく優しい泥でした。ご確認よろしくお願いします。なんて。本題はどっちだ。

 

嫌だなあ。そうやって変なことはせずに、奢らず、焦らず、真面目にお仕事をするに限る。

 

 

 

ひとりごと、宇治拾遺物語へのリンクつき

僕の敬愛する町田康は『きれぎれ』で芥川賞をとっているけれど、その前にも『けものがれ、俺らの猿と』で最終候補まで残っていたことがあるようだ。芥川賞全集の該当巻を借りて後ろの方を読むと、一見して物語展開は支離滅裂、いや十回読んでもやっぱり支離滅裂なこれらの小説に、選考委員である石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけているカオスな風景がみられる。(目取真俊芥川賞をとっているので、やっぱり石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけており、やれやれコンテンツだった。)

 

芥川賞とかなんとか賞だから偉いとか読んでみる価値があるという意識は別に持っていないけれど、なんとなく町田康芥川賞をとるなら『権現の踊り子』とかの方がさもありなんじゃない??と感じる。それかいっそのこと『逆水戸』とかもその系列だと思う。でもこれはちょっと短すぎるのかな。

それともこういうのはまだテーマがはっきりしすぎていて支離滅裂さが足りなくて、つまりなんか病んでいなくて迫力がないということか。だとしたら随分不健康な選考基準だ。

後日補足:すっかり勘違いしていたのですが『権現の踊り子』は芥川賞後の作品だった。これじゃあ理屈があんまり成り立たない、ごめんなさい。

 

選考基準とか評価って、それ自体どういうことなんだろうか。よくわからない。なんであろうと興味があるのは作品自体だ。なんか難しい理由があるわけではないけど、好きな小説でもその解説書とかを真面目に読む気にはならないし、「これはこういうことを伝えたかったのだ」とかどうでもいいかなーと思ってしまう。それは単なるあなたの解釈でしょって感じてしまって、ちゃんとした考証があってもそんなに重要度が理解できない。本当によくないことだ。

最近、町田康宇治拾遺物語を口語訳したのが載っている『日本文学全集8』を遂に買ってしまった。想像を絶する馬鹿馬鹿しさに電車の中でも笑いを堪えることが出来ずにいる。

 

ところで、自分でもいま何を書いているのか全くわかっていない。気持ちがけっこうへとへとだ。へとへとの時はなんでもいいから何か文章を書いてみるといい気がする。だから適当に書いた。しかし、いかんせんスマートフォンで書いたので、目の奥が一層へとへとになった。いみじきことだ。

 

宇治拾遺物語、サンプルで一話読める。

https://kawadeshobo.tumblr.com/post/129340109097/

町田康訳  『宇治拾遺物語』より

「奇怪な鬼に瘤を除去される」

 

これも十分しょうもないけれど、しょうもない下ネタがないだけまだまとも。

 

 

阪神高速14号高架橋

通天閣を抜けて、北側から南へとアーケードに入る。

さっきまで溢れそうなほどいた観光客はうそのように消え、カラオケ付き居酒屋からヴィブラートの利きすぎた下手な歌声がこだまし、どこからともなく不思議なにおいがしてくる。大阪には至るところにアーケードがあるが、山王のアーケードは明らかに雰囲気が違う。少し緊張して、せき立てられるように歩く。しばらく行ってから左に曲がれば、両脇には提灯が並び、桃色の光がぼうっと光っている地帯だ。遂に来てしまった。

一方、大阪阿部野橋駅から西方向に入ろうとすると、それは突如現れる。綿密な都市計画に基づいて最近建てられたのであろうマンション群の坂を下ると、いきなり視界が開ける。なんの前触れもなく、いきなりそこにたどり着いてしまうのだ。あまりの唐突さに、お互いの区画がもう一方の区画を決定的に無視し、存在をなかったことにしているようにさえ思える。

 

花街に入ると、いろいろなものをなかなか直視できない。料亭のひとも、道行くひとも、なにか目があってはいけない気がした。呼びの甘い声(しばらく耳に残りそうだ)、どこからともなく聞こえる15分タイマーの音………自分がここを歩いていても不思議ではなく、いやむしろ充分ここにいてしかるべき部類の者だということを、強く意識させられる。滑稽すぎだ。あの隙のない笑顔、その時どんな気持ちなんだろうか………。

ガンジス河がバラナシの喧騒を静かに見守っていたように、阪神高速14号線の高架橋が花街を見守っている。けれども高速の高架橋は、街の中心を貫きながら街の営みとは全く関係性を持たない。ただ、そこを貫くだけなのだ。高速道路を車で走っているだけでは、下の街がどういう街なのか、まず気づくことはないだろう。そこにも断絶があるのだ。

 

それで100mくらい歩いたらなんかへとへとになってしまって、普段ならまず買わない甘い缶コーヒーを買って高架橋の下で飲んだ。それからすぐ帰ってしまった。それで予定どおりだ。ここで1万円を使う15分間が、一生来ないといえるだろうか。よくわからない。

 

 

初任給や初乗り運賃とはあまり関係のないこと

就職して、毎日7時に起きるようになって、髪の毛を欠かさずいじくりまわして、欠かさず水筒にコーヒーを詰めて、少しはタイピングが早くなって、でも相変わらずmicrosoft officeは僕の言うことを聞かなくて、支給されたiPhoneは使い方がさっぱり分からず笑われて、でも笑った奴はwindowsがさっぱり分かっていなくて、新しいシャツを買って、眼鏡とスーツとリュックも新調したいけれどそれはまだで、まあ人にはけっこう恵まれている。

そういっているうちに初任給などをゲットした。高いようで安く、安いようで高い。確定拠出年金とか将来の費用とか諸手当とか考えていたら、感慨などは一瞬で雲散霧消、残ったのは長すぎるこの後の人生についての淡白な数字の計算なのであった。これから世界がどうなっちゃうのかわからないし、日本も、自分も、どうなっちゃうのかわからない。メメント・モリだ。

 

学生時代のこと。

あの頃はほとんどをお出かけと音楽に使ってしまったので、お金がなさすぎた。だから初乗り運賃130円を節約して何キロも歩いたり、タクシーはひとりなら絶対に使わないと決めていたりした。使ったら昼ごはん抜きとか。あほだったけど、あほにはそれが楽しかったのだ。定期券を使ってただで都心に出られるようになると、それが逆に寂しかった。

今のこと。

結局この前も、天気のいい日曜日に原宿から目黒まで歩いた。目黒川の作った河岸段丘を下って、小さな坂の名前とかを知って、けっこういいコースだ。これで154円の節約。なんだか進歩していない。それでも長い距離をさくさく歩くことは、何か懐かしい行為になってゆく。逆にタクシーをお構いなしに使うことは、何か決定的に自分をおじさんにしてしまう行為だという直感がある。一気に老け込んでしまいそうで怖い。お金はできたのに相変わらずこんなけちくさいことをしているからには、やはり過去の忘れがたさがある。ぼろいリュックの重みとスニーカーから伝わる地面の感触に安心してしまう。

山崎ナオコーラの小説に、昔は自転車にふたり乗りしていた恋人とお互い立派な大人になって再会したところ、疲れたからタクシーを使おうと何度も言われて「しょんぼり」する、という場面がある。寂しい。寂しいな。どうすることもできない時間の流れは、そういう小さなところに最も凝縮されてゆくのかも知れない。

別に学生に戻りたいとかというわけではない。もっと勉強はしたいけど、今も今でよいし、昔は良かった主義は危険だ。だから今は、あほみたいに歩いて、しっかり仕事して、本を読んで、しっかり仕事してお金ためて、やっぱりなぜかあほみたいに歩く。歩きまくった後のビールは最高。

 

そんな日常を過ごすのがしばらくの低すぎる目標です。目標達成に向け日々邁進いたしますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

石拾い

学生最後の一日。小雨、微妙に寒く、かといって凍えるほどではない。今日は暗いし、僕の部屋はそもそも朝の光が届きにくく、また寝坊した。

新生活、に向けて準備することは多くなかった。そしてどれも3月前半までには終わってしまった。引っ越しもないし、役所に届けるべきことも済んだ。卒業式も旅行お別れ会もすでに過去になり、最後の日は特に何もない日だ。新生活、とはかけ離れた普通の一日。

新生活、といってやたら発破をかけてくるのはちょっと商業戦略っぽいにおいがして、このことばを使って清々しい気分になったりするのはなんか悔しい。頼んでもいないのに「新生活応援グッズ」の広告がどんどん来て、人の生活を勝手に新しくするなーー!!などとその度に家でわめいている。あほだ。これからの生活を果たしてどれだけ新しいものと感じることができるのか、やってみないとわからない。楽しみ。

何かを書きたいのに、驚くほど内容を思いつかない。

だらだら雑誌を読んでいたら、青森県に石拾いの聖地みたいな海岸があるという記事があった。まあ聖地といっても別に聖地ではなく、奇石がたくさん落ちているとかというわけでもないらしい。特別なものは何もない。石拾いでは、自分がいいと思える石を拾えさえすれば、それだけで価値になる。特に目立った石や珍しい石でなくても、それをなんか良いなと思って持って帰れるくらいの大らかさが、ここでは大切なのだ。自分はなぜか、うずらの卵みたいなやつが昔から好き。

僕にとっての石拾いの聖地は、幼い頃からよく行った小田原の海岸だ。住宅地を抜けて、西湘バイパスをくぐって、がらんとした海岸に出る。海は別に綺麗でもないし汚くもない。うずらの卵石を拾ったり、海に投げたり、それからつげ義春の『無能の人』を少し思い出したりして、苦笑いする。無能の人は石ころに石ころ以上の価値を見いだそうとしたから失敗したのである。あほだ。本当に無能だよなぁと考えながら家に帰る。そんな日が少しあれば、何が大丈夫なんだかわからないけれど、とにかくこの先も大丈夫だと思う。

何もない日、石を拾いたくなる日。小雨、微妙に寒く、かといって凍えるほどではない。新生活、が、始まるのだろうか