色とりどりの棒

わかりたい

旋律地獄

必要に迫られて最近は哲学の勉強もまあそこそこやっているつもりだけど、平行してこっそり音楽理論の勉強もやっている。そうしたら基礎は知っていたつもりだったのにけっこう何もわかっていないことが発覚した。

その中でも今一番興味があるのはバッハのフーガ、特に平均律クラヴィーア曲集のフーガで、全然うまく弾けないくせにヘンレ版の楽譜(のコピー)にはアナリーゼもどきの書き込みをして遊ぶ。以前ちょうどオーケストラの演奏会で配るパンフレットにバッハ=フーガの解説を書く機会があったので、その時に張りきっていろいろ関連書も読んだ。読んでて楽しかったのはフランスの初心者向け解説書『ライプツィヒへの旅―バッハ=フーガの探究』(ミッシェル=モラール, 2013 春秋社)というやつ。内容は先生と生徒による対話形式で、僕が「なるほど!」とわかりを得たタイミングで登場人物の生徒も「なるほど!」というセリフとともにわかりを得たりしているので読んでいてなんか面白い、そんな本です。

それで個人的に思うのは、バッハのフーガには、よく言われる「美しい」とか「敬虔だ」という形容よりも、「とてつもない」とか「凄まじい」という方が合っているということ。実際、声部同士が決定的に対立してしかも互いに全く妥協せず、結果的に和声としては大変な不協和音になっているという部分もたくさんある。僕が平均律の中で一番好きな第一巻のロ短調(BWV 869)などは、誰だかが「不協和音の絨毯」とか評していたほどだ。というかなんだよその表現かっこよすぎかよ。

いやでも本当にその曲は「不協和音の絨毯」が敷き詰められているし、特にオルガン曲のフーガとかはそういう意味で正直聴いていてキツいものさえある。多声部の旋律が同じ音量(しかも大音量)で容赦なく脳内にぶちこまれる。旋律を追うことができず、脳はパンク寸前。理解できない、うるさい、キツい。旋律地獄なのだ。でも楽譜を見ながら聴くと次第に頭が整理されて、それぞれの旋律が分析された状態で認識できてくる。そうなればなるほど感動!なんだこの曲凄すぎる!と思えてくる。僕はオルガン曲のフーガの鑑賞ってそこから始まると思う。旋律地獄の先に、それぞれの顔を持って声部が立ち表れてくる、そこからだ。というわけでこれはやっぱり「美しいバッハ」なんかじゃなくて、「凄まじいバッハ」だと思うのです。ウオオオオすげえ。ゴゴゴゴゴ。

(有名なBWV 542とかは「凄まじいバッハ」の代表格という感じがするので聴いてみてください)

ところで完全な独学なのだけど僕も趣味で作曲をしている。中学生で初めて作ったとき以来、先生は主にベートーヴェンソナタだった。けど最近は前衛音楽っぽい多調的無調性で、バッハ以来のフーガ形式をやったらスーパー面白いのでは??と思って挑戦してみている。かれこれ2曲出来上がったんだけど、うーんどうなんだろうなぁ。少なくとも和声の綺麗さとは無縁の出来だ。汚ねぇ。あとこれは昔からだが、でかい頭ばかりが先行して肝心の指が追いつかないという悲しい事態に陥っているので、自分で作った曲なのに満足に弾けない。つらみ。まあとにかく今度の発表会でちまちま演奏してみたいと思う。

あとはこれは議論が星の数ほどありそうだけど、たくさん楽理を勉強して、楽譜と格闘しながらじゃないと芸術の悦びどころか苦痛にさえなるような音楽(=わかりミュージック)にはどういう価値があるのだろうか。まあどちらかというとこれは難解な現代音楽に必要とされる問いでしょうね。音楽なんてぱっと聴いて直観的に価値を判断され得るようなものだけあればいいじゃん、という人は結構おおい。実は自分の身近にも恐らくそういう意見であろう人がいて、音を聴かないで楽譜ばかり眺めていた僕に「音楽は聴くものであって視るものでも考えるものでもないよ」とか言ってきた。難しい議論はともかく、まあ好きにさせてくれよ……と思うよまったく。和声理論や対位法でご飯を食べている人たちがいるという事実が示すように、ともかくそういう変な人というのは一定数いるのです。そっとしておいてあげましょう。

以上です。「メンデルスゾーンには泡盛」というのがこのブログの一貫した主張なのですがバッハにはなんのお酒がいいかな。ショットのウィスキーかな、「白州」というより「山崎」かな。

ちなみにバッハ自身はビールが必需品だったようで、ヴァイマル時代の出納帳には宿泊費や食費とは別に「ビール費」が別会計で計上されているとのことだ。ビール費、ほしい。