色とりどりの棒

わかりたい

思考実験と組み相撲はとらない

(これは10/30の投稿とセットにするつもりで書いたのだけど、やっぱり微妙なのでは?と思いだしてお蔵入りしていたやつです。でも卒論でも発表でもなんでもないので、なんかもったいないしもう微妙でも構わないやと今さら開き直った。)

心の哲学で卒論を書きたいという以前からの決意に全く変わりはないのだけど、やっぱり思考実験を使って意識を形而上学的に論じる方針については相当無理あるな???という思いが日に日に増してゆく。

これまでもそういう感覚はあったが、それでもデネットみたいな過激派をみていると「とはいえ思考実験をすること自体は議論の幅を拡げるのに役に立ってるんだし」みたいな思いもあった。その辺の折り合い(?)がつけられていなくて、いろいろ中途半端になっていた。でもむしろ今はデネットの直観ポンプ云々という批判の受容より、思考実験で得られる形而上学的な結論も結局「認識」が一枚噛んでるわけで、そんな直観だけで意識の存在論は語れないでしょと単純に思う。卒論で説明ギャップの話を持ち出そうとしたのも、それが認識論的な話だけに特化しているからというのが理由として大きい。なんというか、論法が謙虚だ。(当のレヴァインも我々の形而上学的直観は脆弱だということを重視しているみたい)

とにかく存在論的二元論を相手に思考実験を使って戦うのは、そもそも相手の土俵に乗っちゃっていてなんか気分がよくない。某ギリシア人が「たとえ哲学的な問いを解除するにも哲学が必要だから哲学はすごい」的なことを言っていた気がする(忘れた)けど、その引きずりこみ論法ずるくないですか。それと同じで、思考実験の結論を正面から論駁するにはやっぱり思考実験をしろということになりがちなので、引きずりこまれる前に始めからその土俵を降りておきたいんです。土俵に上がってまともに組み相撲をとれば、たぶん歯切れ悪く負けちゃうだろう。

じゃあどう論じれば意識について納得いくかたちでわかりを得られるのか考えたところ、心や意識の概念が形成された過程と科学的同一視、という観点から切り込むのがいいのではという結論に至りつつある。卒論では、心の概念を含む素朴概念はそもそも経験と心的過程を経て形成される上に、言語文化的なバイアスやその他いろんな要素が絡んでいて、その素朴概念に科学的な説明的同一視を与えても、成立過程上の差異から齟齬が生じている「ように見え」、それがギャップの正体である、みたいなことがいいたいんだけど、果たして大丈夫なのでしょうか………………まあ大丈夫じゃなかったら新しいのを考えるまでだ、強気はだいじ。

まあそういうわけで心の哲学ではありながら、「意識とは」という直接的な悩みはやめる。だって意識なんて今までで一個(自分のやつ)しか観察したことないから、直接論じなさいといわれても情報が少なすぎてお手上げである。で、その代わりに「説明とは 概念とは 推論とは」という悩みに移行することにした。悩むポイントをずらすことで思考実験の軛から逃れて、いわば議論の自然化みたいなことが少しでもできればいい。

とかブログでいってる場合じゃなくて、本文を書け、本文を。言い訳をすればこの文章は気晴らしに書いただけで、これを書かなかったとしてもどうせ意味不明くそツイートを量産していただけだろうということは明白なので、どっちもどっちなんだ。

あと思考実験については、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』(岡本裕一朗,2013 筑摩書房)という文庫本を読んだことがある。領域が多種多様で読み物としてはけっこう面白い。こんな文を書いたあとでも受け入れられる思考実験もあれば、そうでないのもある。とにかく、いろいろよく思いつくよなぁと感服した。