色とりどりの棒

わかりたい

メリークリスマス

千葉県市原市の山あいにある某無人駅に、なんの縁あってか今年だけで二回も訪問する機会があり、まずは五月そして次は十二月に降り立ったのだけれど、一度目は春麗らかでとても風情があったのが、二度目では大量の電飾でこれでもかというほど駅は飾りつけられ、夕闇の穏やかな景色の中で圧倒的な存在感を伴って、大小さまざまかつ色とりどりの電球が点滅している。周辺はことごとくただの山あいの集落と田畑という感じで人家の明かりは数軒見あたるのみだし、小さな駅舎もやって来る汽動車もかなり年季が入っている上に、電飾の方はなにやら偽物くさい舞浜のネズミ氏等が中途半端に顔を光らせており、おまけに小さなちゃちい電子音で「清しこの夜」等が延々と流れ続けているのだった。

はっきりいって絶望的なセンスのなさなのだけど、これで興醒めしてしまったということは全くない。なんだか哀愁というか悲哀というかが濃密で、むしろなんとも言い表しがたいない気分になってしまった。この徹底的なゴテゴテから醸し出されるどこか素朴な悲哀は、狙って再現できるものでもないだろうし、貴重だ。それになんだか安部公房最後の長編『カンガルー・ノート』の死の場面を連想させるような雰囲気で、僕はこの小説のこの場面が全ての中で一番好きなので、内心ではむしろ感動しきりでした。

とはいえどういってみてもミスマッチすぎる電飾なのに、案外皆さんからの評価は高いのである。地元民と思われるおばさん等が、あら綺麗だわね、としきりに携帯のカメラ等に収めたりしていた(!!)。うーん、小さな鉄道会社の社員がクリスマスだと張り切って、少ない予算をやりくりして電飾を買ってきて自分達で飾ったのだろうか、それでいてお客さんにはけっこう喜ばれているみたいだということがわかった。そう考えるとなんかいいな、あたたかい話っぽい。そんなこんなも含めて、なかなか善い景色だったのでした。決して綺麗ではなかったけど。それに電気もかなり無駄じゃんな。節電しやがれ。

そういうどぎついのを観て以来、「渋谷や新宿などでイルミネーションを目にするとなぜか自然に笑いが込み上げてくる病」に罹ってしまった。なんか一つひとつの電球が粒としてしか見えなくなってきて、それが集合してできる全体像としての装飾が見えてこない。それで絶妙におもしろくなっちゃったんである。困った。

クリスマスですね。去年はイブに赤ワインをらっぱ飲みして二十五日は宿酔で学校に行き、そのまま食欲が湧かずに昼ごはんは学食でオクラのおひたしと味噌汁だけというありさまだった。楽しかった。さて今年はどうなるかな、なんでもいいけど遊びたい。でもやはり卒論と格闘なのかな。やっと半分まで書けたけど、オリジナリティーはここからなのでまだまだ時間がかかりそうだ。参った。

卒論は書くのに疲れると、よくwordの文章内検索機能を使って遊ぶ。ここまでの16000文字くらいの中で、「ギャップ」が99回、「同一」は66回、すでに書かれているらしい。ちなみに助動詞「である」は134回だそうな。つまり全体の約6%はこの3つの単語でできている。なんかわろた。

ところで今書いていて思いついたのだけど、「ア・プリオリとモッツァレラチーズのパスタ バジルソース添え」って美味しそうじゃないですか。新鮮な味がしそうだ。ア・ポステリオリはどうしよう、ムール貝と一緒にパエリアにしたいかな。コクがありそうだ。そんで赤ワインをらっぱ飲みしたい。ばーかばーか

いきなり暴言を吐いておしまい。