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色とりどりの棒

いろいろな棒と思考の記録帳

だるまさんの問題

もう360日くらい前になるだろうか、電車を何回も乗り継いで有名な寺社へと初詣に行ったとき、参道も境内も予想通りの大混雑、初詣の参拝客はわいわいがやがや、ありきたりなお箏の音楽がスピーカーからぼろんぼろんぼろろろろん、と、お寺はとにかくまあ大盛況で、なんだか笑いがこみあげてくる。けれど歩いているうちにいつの間にか、どうやってそこにたどり着いたのか思い出せないような場所へと迷い込んでしまった。誰もいない静かな階段に沿ってびっしりと並ぶお土産やさんの屋台と、猿の置物やらだるまさんやらを並べて、暇そうな店主のおばさんおじさん。僕はこういう人のいない不思議なところが大好物なので楽しくなって、かくして身長6センチの小さなだるまを買ったのだった。勢いで。

それ以来このだるまさんは12か月間、片眼だけが描かれた状態で机の上に鎮座している。片方だけの眼で日々の悪行等を監視している。そしてこちらは年末となった今、彼の処遇にとても苦慮していたのだった。

まず、両眼を入れるのかどうか。一年間の目標を達成したら両眼を入れる権利が発生するわけだけど、いくら「いい年にする」といった漠然とした目標を後から設定してみたところで、眼は入れられないというのが現実なのだ。今年はそういう年だった。じゃあ逆に具体的な目標はどうかというと、だるまさんの背中には筆ペンで「筋力増強」「完全勝利」「無二日酔」「他者理解」などと下手くそな筆ペンの字で書いてある。おばかなのか。12ヶ月前の自分が心配でさえあるけど、まあ結局どれも達成していないことに変わりはない。特に3番目については、経験上この量なら絶対大丈夫と思っていてもやっぱり次の朝は宿酔という事態がこのごろ頻発して、これも年齢の所為なのかなんて思ったり思わなかったりだし。1番目の筋力は鍛えていたけど、この前やったノロウイルスで体重が3キロ落ちたときに全部溶かした(大袈裟)。2番目と4番目はノーコメント。とにかく眼は入れられそうにないのだけど、とはいえやはりずっと片眼だけというのもなんかしのびない。

そういうわけで、さっき眼を描いた。

これだけ入れられない理由を列挙しておきながら、「なんかしのびない」が勝利してしまった。あーあ。でもいざ両目の入っただるまさんを見ると、なんか今年もちゃんと終ったな、頑張ったなという空虚な充実感を味わえないこともない。酷い、いくらなんでも認知の歪みが酷い。でもそうやって形から入ることって実際あるのだし、上手にこの酷さを使えることも大人という奴らの一つの定義かもしれない。よし僕も大人になるぞ。

次の問題は、今後の彼自身をどうするのかということ。お焚きあげにしてしまおうか。しかしなんだかんだ毎日一緒にいた奴なので、燃やすのはなんかしのびない。昔からものを捨てられない。靴下とかぼろい人形とか。それにお焚きあげとなれば、それは即ち一生の大半を片眼だけの状態で過ごし、やっと両眼をゲットして完全態になった途端に燃やされてしまうということを意味するので可哀想。やっと成虫になった途端に死んでしまう蝉みたいだ。蝉はべつに可哀想じゃないけどな。

やっぱりしばらく、お焚きあげは保留にした。

そういうわけで恐らく、平成29年紀元2017年民國106年ヒジュラ歴1439年は、根拠もなく両眼の入ったご年配のだるまさんと共に過ごすことになりそう。彼の出身地は、寺社の裏の誰もいない階段にある、静かで不思議なお土産屋台だ。新年いきなり両眼持ちなのだから、縁起のいいことである。この勢いで木星人を発見したい。

ああ来年も、少なくとも命だけはつなぎたいところだなあ。さようなら。