色とりどりの棒

わかりたい

音のサイレンと絵のサイレン

この世界の片隅に』について、局所的な雑感。こうの史代さんの漫画は以前『ぼおるぺん古事記』で初めて読んで好きになり、それから何作かは読んでいる。題材が素敵なのと、女の子が可愛いのと、背景考証が丁寧なのがよい(漫画なのに文献表がついていたりする)。でも『この世界の片隅に』は未読のまま映画を観にいったのだった。

映画はなんといっても、後半(漫画だと中巻あたり)からの空襲警報のサイレンが印象に残った。不吉な音の響きも現実味があるけれども、それより何度も何度も何度も何度も何度も誤報で鳴る空襲警報と、その度に防空壕に避難しなければならない消耗と疲労。単に生活を乱す存在として日常に溶け込んでゆく戦争、そしてある日突然現実となる空襲。実際は最初に街が焼かれたとき、当時の人はどんな目でそれを見ていたのかな。映画館は大音量なので、サイレンの表現は鑑賞者自身への物理的疲労の蓄積としても機能していた。さらにそれが作者の表現上の意図であるようにも感じた。偉そうな評論はできないけれども、少なくとも僕はそれでけっこう疲れた。

ところで音のでない媒体である漫画では、このしつこい警報はどう表現されているのか、それがとても気になって、映画館から出た足で買ってすぐに読んだ。相変わらず女の子が可愛いくて、背景考証が丁寧だ。それでやっぱりけっこう辛い。肝心のサイレンについては、ああなるほど、これはこれで「疲れる」表現だな、とは思ったのだけれども、やはり音による直接的な描写と紙面上の表現とはまた違う。だから、感じるのもなにか違う種類の疲労感なのだ。映画の疲労は物理的、漫画の疲労は長い読書によるもの。でもじゃあ映画の方が良いと思ったかというと、細かい人間の機微みたいなところが省かれていたりもするし、そういうわけでもない。もし原典の漫画を先に読んでいたら、映画のみかたも変わったのかな。まあそんなことはわかるわけがない。

帰り際にうどん屋さんに入ったら、なぜか「森のくまさん」等の他愛ない音楽が流れていて、なんでうどん屋さんで森のくまさんなのか、意味がわからなかった。そしてけっこうしょうもなかった。うどんはまあまあだった。

他愛なくいられることは大切なことだ。年中サイレンが鳴るようになってしまえば、しょうもないことや他愛ないことは追放されてゆく。世界は単色になってゆく。森のくまさんどころではない。