色とりどりの棒

いろいろな棒と思考の記録帳

こっそり映画を観る

映画を観る。映画館にはよっぽど興味があるやつがないとあまり行かない。じゃあどこで観るんだというと、amazon studentの割引が適用されるうちに登録して映画見放題した方がいいぞといわれ、そうかっていうんで課金したということだ。だから映画を観るといってもラップトップPCで観るだけ。ヘッドホンが高級品なので音の迫力があるわりに、映像はやたらとこぢんまりしている。

何を観るかといえばいろいろなのだが、新しく観るようになったのは、正直にいうとレイティングのあるR15+やR18+の映画。「愛の渦」とか「海を感じる時」とかそういうやつ。小心者なので映画館で観るのは気が引けるし、DVDとテレビで観るのはひとりであってもそわそわしてしまう。だけど、こぢんまりしたPCの画面ならなんかできてしまうものだ。

過去を思い返せば、年齢制限のある映画はR15+を15歳になってすぐに友達と観に行ったことがあった。大人ぶって調子に乗っていたのだ。しかし折角観には行ったのだが、映画の内容はただただ暴力・強姦・殺人といった感じで、全然よい印象はない。つまらなかった。そういうわけで、それ以来どこかに年齢制限のある映画に対する蔑みに似た感情があり、そんなくだらないものをわざわざ観ようなんて思わなかったというのもある。それから約7年が経った今はその態度をちょっと反省して、そういう過激表現系(?)の映画ももう一度観てみようと思い至った。

改めて観てみると、こういう映画の魅力は往々にして余計な無害化というか毒抜きをされることがないことかも知れないと思った(うまい表現がみつからない)。製作者が表現したいそのままに近いものを、万人に観られることへの自主規制とかに走ることなく表現できる、という背景があるのかな??とか考えてみる。(年齢制限がある映画なんて観ないという成人もいるだろうし、鑑賞者の篩として制限は機能するはず)。反社会的なもの、例えば露骨な性的表現や暴力が含まれる作品であっても、予め年齢制限がかかっているんだから多少はいいでしょ、という感じで、それを「盾」として比較的自由に表現できるという点で、制限も一役買っているのかもと思った。まあ制限のせいで不必要に過激化して展開を損ねることが半分以上な気もする。とにかくそれとは関係なく、露骨な生死のことや、露骨な性のことを含めて展開する物語というのは、むしろ現実の中にある物語の感覚や、社会的に隠されるべき興味にも近しいだろうし、それとは反対に、当たり障りのない無害化された世界の中で「濃密な人間ドラマ」的なものを無理に繰り広げれようとすれば、うわっなんかわざとらしいなーーとか、わかってるようなこといっちゃってちゃちいなーーとか、感じてしまう気がする。このことは別に年齢制限と直接は関係ないけど、年齢制限のある映画を複数観ることでこんな感覚が出来上がってきた。あれれ。

僕は表現の大胆さや過激さ自体にはそんなによさを感じられない。だからド派手な暴力・強姦などをやってのける極悪人をド派手にぶっ殺す、ということに主眼をおいているような映画を好きにはなれないし、15歳の時にみたあの映画は22歳の今観てもつまらないのだろう。嫌悪感というより、しばらく観ていると話が単調すぎて飽きてしまう。だからR15+やR18+の映画や、それに準ずるような映画が全て自分にとって面白いものであるとは全くいえなそうだし、でも一方でこれはかなり好きだな!!!とか、つまらなくてもプロットやカメラワークとかでなるほどなーー思えるもの(ど素人ですが)も発掘できたということ。その点では、最近観るものは気に入るかどうかの振れ幅が大きすぎて笑える。つまらない映画に出会えるのも、ある意味では見放題の特権だろう。

いつものことながら、なんかまとまらない。鑑賞に制限があること自体の潜在的な危険さも忘れてはいけないし。それに、もっと具体的にいろいろ書いてみたかったんだけど、露骨な映画の内容に言及する勇気がなくて、結局抽象的にまとめてしまいました。情けないね。

まあとにかく、僕は今のところ生きています。