色とりどりの棒

わかりたい

初任給や初乗り運賃とはあまり関係のないこと

就職して、毎日7時に起きるようになって、髪の毛を欠かさずいじくりまわして、欠かさず水筒にコーヒーを詰めて、少しはタイピングが早くなって、でも相変わらずmicrosoft officeは僕の言うことを聞かなくて、支給されたiPhoneは使い方がさっぱり分からず笑われて、でも笑った奴はwindowsがさっぱり分かっていなくて、新しいシャツを買って、眼鏡とスーツとリュックも新調したいけれどそれはまだで、まあ人にはけっこう恵まれている。

そういっているうちに初任給などをゲットした。高いようで安く、安いようで高い。確定拠出年金とか将来の費用とか諸手当とか考えていたら、感慨などは一瞬で雲散霧消、残ったのは長すぎるこの後の人生についての淡白な数字の計算なのであった。これから世界がどうなっちゃうのかわからないし、日本も、自分も、どうなっちゃうのかわからない。メメント・モリだ。

 

学生時代のこと。

あの頃はほとんどをお出かけと音楽に使ってしまったので、お金がなさすぎた。だから初乗り運賃130円を節約して何キロも歩いたり、タクシーはひとりなら絶対に使わないと決めていたりした。使ったら昼ごはん抜きとか。あほだったけど、あほにはそれが楽しかったのだ。定期券を使ってただで都心に出られるようになると、それが逆に寂しかった。

今のこと。

結局この前も、天気のいい日曜日に原宿から目黒まで歩いた。目黒川の作った河岸段丘を下って、小さな坂の名前とかを知って、けっこういいコースだ。これで154円の節約。なんだか進歩していない。それでも長い距離をさくさく歩くことは、何か懐かしい行為になってゆく。逆にタクシーをお構いなしに使うことは、何か決定的に自分をおじさんにしてしまう行為だという直感がある。一気に老け込んでしまいそうで怖い。お金はできたのに相変わらずこんなけちくさいことをしているからには、やはり過去の忘れがたさがある。ぼろいリュックの重みとスニーカーから伝わる地面の感触に安心してしまう。

山崎ナオコーラの小説に、昔は自転車にふたり乗りしていた恋人とお互い立派な大人になって再会したところ、疲れたからタクシーを使おうと何度も言われて「しょんぼり」する、という場面がある。寂しい。寂しいな。どうすることもできない時間の流れは、そういう小さなところに最も凝縮されてゆくのかも知れない。

別に学生に戻りたいとかというわけではない。もっと勉強はしたいけど、今も今でよいし、昔は良かった主義は危険だ。だから今は、あほみたいに歩いて、しっかり仕事して、本を読んで、しっかり仕事してお金ためて、やっぱりなぜかあほみたいに歩く。歩きまくった後のビールは最高。

 

そんな日常を過ごすのがしばらくの低すぎる目標です。目標達成に向け日々邁進いたしますので、今後ともよろしくお願いいたします。