色とりどりの棒

わかりたい

ひとりごと、宇治拾遺物語へのリンクつき

僕の敬愛する町田康は『きれぎれ』で芥川賞をとっているけれど、その前にも『けものがれ、俺らの猿と』で最終候補まで残っていたことがあるようだ。芥川賞全集の該当巻を借りて後ろの方を読むと、一見して物語展開は支離滅裂、いや十回読んでもやっぱり支離滅裂なこれらの小説に、選考委員である石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけているカオスな風景がみられる。(目取真俊芥川賞をとっているので、やっぱり石原慎太郎がなんとかみたいなコメントをつけており、やれやれコンテンツだった。)

 

芥川賞とかなんとか賞だから偉いとか読んでみる価値があるという意識は別に持っていないけれど、なんとなく町田康芥川賞をとるなら『権現の踊り子』とかの方がさもありなんじゃない??と感じる。それかいっそのこと『逆水戸』とかもその系列だと思う。でもこれはちょっと短すぎるのかな。

それともこういうのはまだテーマがはっきりしすぎていて支離滅裂さが足りなくて、つまりなんか病んでいなくて迫力がないということか。だとしたら随分不健康な選考基準だ。

後日補足:すっかり勘違いしていたのですが『権現の踊り子』は芥川賞後の作品だった。これじゃあ理屈があんまり成り立たない、ごめんなさい。

 

選考基準とか評価って、それ自体どういうことなんだろうか。よくわからない。なんであろうと興味があるのは作品自体だ。なんか難しい理由があるわけではないけど、好きな小説でもその解説書とかを真面目に読む気にはならないし、「これはこういうことを伝えたかったのだ」とかどうでもいいかなーと思ってしまう。それは単なるあなたの解釈でしょって感じてしまって、ちゃんとした考証があってもそんなに重要度が理解できない。本当によくないことだ。

最近、町田康宇治拾遺物語を口語訳したのが載っている『日本文学全集8』を遂に買ってしまった。想像を絶する馬鹿馬鹿しさに電車の中でも笑いを堪えることが出来ずにいる。

 

ところで、自分でもいま何を書いているのか全くわかっていない。気持ちがけっこうへとへとだ。へとへとの時はなんでもいいから何か文章を書いてみるといい気がする。だから適当に書いた。しかし、いかんせんスマートフォンで書いたので、目の奥が一層へとへとになった。いみじきことだ。

 

宇治拾遺物語、サンプルで一話読める。

https://kawadeshobo.tumblr.com/post/129340109097/

町田康訳  『宇治拾遺物語』より

「奇怪な鬼に瘤を除去される」

 

これも十分しょうもないけれど、しょうもない下ネタがないだけまだまとも。