色とりどりの棒

百四十字以上の呟きなど・わかりたいことなど

「強い表象主義」界隈について その二

 

 

勉強ノートの続き。

ジャクソンが「最小の表象主義」と「透明性テーゼ」の正しさを信じ、それを用いて「強い表象主義」を導く仕方は、その論理的不明瞭さの問題もあり、必ずしも説得力のある論証とはいえないと山口先生は考えている。しかし、強い表象主義を証明しないことには「クオリアは知覚や感覚の表象的性格を越えない」(p221)というタイプA物理主義的な結論を導くことはできない。そこで著者本人による「論理的に妥当な」強い表象主義の証明がここでは行われる。

 

ところで山口先生によれば、「心的状態それ自体が主体へ提示するもの」(p222)という意味合いとしての心的状態の性格 character を考えるとき、それは「対象の性格」「自立的性格」という2つに分類される。「対象の性格」は字義通り対象へ帰属する性格である。一方の「自立的性格」とはその反対で、いかなる種類の対象にも属さない性格のことである。とはいえ、あくまでひとまず考え方を便宜上このように分類しただけであって、両者が共に存在するというわけじゃない。

さらに、心的状態の対象についても「表象的対象」と「非表象的対象」の2種類に分類する。前章で確認したように、表象的対象は志向的対象であり得る。この考え方は世界を「正しい表象をすること」/「誤った表象をすること(錯覚とか)」を的確に説明する。(とはいえ、例えば心的状態の議論における直接実在論を錯覚の存在などを考慮して否定したような状態で、志向的対象に対しての世界の表象の「真偽」はどうやって決定されるのかはまだ全然わからない。しかしこの点は、後に可能的個物という概念を伴って説明される。よかった。)

一方で非表象的対象とは、それがセンス・データであるような対象のことだという。表象には実際のところ真偽があるという特徴を鑑みると、センス・データはその特徴を汲み取って説明することはできておらず、だからそれが世界を表象しているとはいい難い。センス・データは、「通常の対象」とは存在論的身分が全然違うのだ(だが、いきなり通常の、などと言われてもなあという気も少しする)。

 

さて、以上の道具立てが揃ったところで、選言主義テーゼ the Disjunctivist Thesis と、その逆である非選言主義説 the Non-Disjunctivist Thesis が導入される(p225)。ここがある意味で議論の真打ちなのだが、ここを読んでいると、山口先生の目指した論理構造とは、述語論理的なそれだったのか、ということが見えてくる。骨格を掴むだけならもう少しだ。

それで、ここでの選言主義テーゼとは、「心的状態が、表象的対象と非表象的対象を併せもつ」(p225)ということである。つまり、心的状態の対象は2種類あるということだ。非選言主義テーゼはその逆で、心的状態は前者のように表象的対象と非表象的対象が混ぜこぜになることなどない、心的状態の対象は1種類だけだという命題である。つまり、非選言主義テーゼによれば、心的状態の対象は完全に表象的対象であるか完全に非表象的対象であるかのどちらかである。

ここで著者は非選言主義テーゼが正しいと考える。なぜなら、選言主義テーゼの場合は、心的状態においてはどこまでが表象的対象(≒志向的対象)で、どこからが非表象的な対象(≒センス・データ)なのかを判断することの無理みなど、なにかと無理みがあるからだ。

この議論が正しく、また最小の表象主義が同時に正しいのだとしたら、選言主義テーゼのみならず、非選言主義主義テーゼの「心的対象は完全に非表象的対象である」という一方のオプションも拒否される。

つまり、心的対象は完全に表象的対象である。これは強い表象主義の主張に他ならない。

 

なるほど。

この議論の骨格は、「あるものはRである」「全てのものがRであるか、全てのものがRでないか(のどちらか)である」という前提から「全てのものはRである」を導くという、明解に述語論理的な推論であり、確かにわかりみが深い。後でちゃんと計算してみようと思う。

でも、これだけでは志向的対象こそが正しい表象的対象の解釈であるということがよくわからないし(これはこの後のテーマになる)、結局この議論は解放されたメアリーに何が起こったという議論なのかもまだわからないし(これは前章の議題)、そもそも最小の表象主義が本当に正しいのかについてもセカンドオピニオンがほしい。それから、選言主義テーゼの否定が少しあっさりしすぎている気がする。もう少し知りたい。等々、やはりまだ、わかるという気持ちになるには早い。早くわかりたい。