色とりどりの棒

百四十字以上の呟きなど・わかりたいことなど

食事概念が崩壊して本当に笑った話

 

 

食事ということは、人間があくまで動物であるということがよくわかるような、とても原始的で生物的な行為だと生々しく感じることが最近よくある。それでも食事という行為は、排泄やら睡眠やらといった、同等に「原始的で生物的」(と僕が感じる)行為に比べて、社会をやっていくのに際し飛びぬけて活用されているのは面白いことだ。興味深いことだ。

 

例えば会社に入ってからもう随分な数をこなした 接待 ということ。接待というのは結局、自分の組織が地位面・金銭面などでプラスな結果を得るという、高度に社会的な目的を持っている。そんな高度に社会的な目的を達成するために、社会的に偉い人たちが一緒に、食事なんていうことをする。言い換えれば、社会的に偉い人たちが一緒に、「経口での栄養摂取」をしながら社会的に偉い話をする。そんなことに、時折だがギャップのようなものを感じるようになってしまった。食事のゲシュタルト崩壊という感じ。そういえば、そんな感じの話が村田紗耶香の小説にあった。

それでこの前、某重役氏と会食(というか接待)があるというんでぺこぺこしながらついて行った。某重役氏との会話は今後の事業展望がどうたらとかそういう類なのに、同時に食事をしている。経口での栄養摂取をしている。笑える。「食事をしている」と言葉で表現すれば全く当たり前のことなのだろうけど、その時の僕はもはや食事概念が崩壊しているので、素直に状況を捉えられない。そうなると本当に笑えてくる。遂に笑いが堪えられなくなって、少し離席してトイレで暫く笑った。酒もほとんど入っていない状態でこれはやばいと思った。接待中にこれはまずいと思った。ちなみに、食事は非常に美味しかった。

 

とにかく、とても大切な場面で誰かと食事を共にする、または食事の場でとても大切な事が決まるというのはよくある話で、これだから食事は本当に凄い。こんなにも原始的な行為が、こんなにも社会的で文化的に発達しているのはびっくりする。

本当に凄い上に、僕は個人的に食事ということ自体が大好きなので、毎回の食事をもっと大切にしたい。正しいものを食べたい。正しい状況で食べたい。好きな人(たち)との美味しい食事は、本当に幸せ。逆に憂鬱な食事会は、憂鬱な会議の千倍くらい憂鬱だ。こんな具合に、もともと持っている感情が、食事を通して増幅されるということ。それもやはり、食事ということが(それは全く恥ずかしいことではないけれども)一般に了解されているよりずっと原始的な要素を含む行為だからなんじゃないか。普段食事概念を語るとき、その社会的な側面ばかりが前面に出すぎているんじゃないか。一度そのように感じてしまうと、厭な会食というのはもはや生理的な厭さを感じるし、人権侵害(言いすぎ)とさえ思えてくる。最近は様々なシチュエーションでそういう人権侵害()も頻発しているので、そういう時は心の底から家に帰って寝たいと思う。

 

ここのところ食事に対していろいろ憂鬱なことがあったから思考が迷走し、挙句の果てに食事概念が崩壊して会食の場で笑い出すといった事故が起きたのかもしれない(単なる言いがかり)。というか、この記事自体が何をいっているのかよくわからなくなってきたのでそろそろやめる。とにかく正しい食事がしたい。それから厭な食事を取り除き、楽しい食事をもっとしたい。なぜなら、楽しいことは基本的には良いことだからだ。