色とりどりの棒

わかりたい

Disjunctivismなど

 

これまで第8章では、強い表象主義の正しさを論証する取り組みを追ってきていて、次第にわかりの総量が増えていっていた。第8章は最後に「表象的対象は志向的対象であること」「志向的対象を表象的対象とする表象主義は、物理主義的(もっと踏み込めば、タイプA物理主義的)な理論のもとで整合性を保つことができること」が証明されてゆく。

前者については、時空的対象 object in space-time やセンス・データといった、表象的対象としてのその他の候補が、錯覚の問題や存在論的な問題を乗り越えられる強靭性を持っていなかったということで篩い落とされ、志向的対象が候補として残ったということで概ねはいいような気がしている。

しかし後者は厄介だ。まず表象的対象を志向的対象として考えることは、本当に物理主義的なのだろうか、といわれたらどうしようか。例えば、「表象的対象=時空的対象説」(存在論的には素朴実在論的なやつ)は、錯覚や幻覚をうまく説明できないということで却下された。一方で、志向的対象はそれを汲み取れるという。なぜか。錯覚という本来の在り方から逸れたもの、幻覚という本来ならば存在さえしないものも、志向的対象ならば表象的対象として扱うことができるからだ。なぜできるのか。いや、というかはっきり言って、このように「存在しない対象」を心的なものとして扱うには、二元論に頼るしかないのではないか。この方針での物理主義は失敗するのではないか。

…………などという人が出てくるかも知れない。しかし筆者によれば、ある理由によって、この方針が二元論に頼る必要はないし、逆に、頼ったとしてもその論証はうまくいかない。だから、志向的対象説を二元論的だと論じるのはお門違いであるという。

では物理主義的に志向的対象を分析するとどうなるか。筆者はそこを乗り越えるのに、可能世界概念を使った議論を展開するのだけど、それは一旦いい。疲れた。

 

それはさておき。

少し前に選言主義テーゼというのが出てきたのだけど、あっさり否定されてしまって可哀想だったので調べてみた。Stanford Encyclopedia of Philosophyを眺めると、やはり選言主義テーゼの元となっているdisjunctivismというのはどうやら、perception (representationではない!)の種類に関する分析のようなのだ。彼らは、錯覚や幻覚とveridical perceptionsについて、それらは経験としては同じだけど、「根本的な部分では」異なる(あるいは、それらは別の種類の心的状態である)などというらしい。この主張は、志向性という概念を念頭に置いた上で、veridical perceptionsの特権性(?)を認めるので、心の哲学においての素朴実在論的な主張を擁護する。これがうまくいけばセンス・データ理論や可能世界を使った志向的対象理論などというややこしそうな理論を持ち出す必要もない。シンプルに時空的対象説でいきたいということだ。しかしもちろん、錯覚や幻覚の説明は難しくなるという欠点がある。

そういうわけで話が戻って、第8章の中で「表象的対象=志向的対象」説を擁護するステップとして、選言主義者的な主張を持ち出して論破するという、そのやり方自体に感じていた違和感とは、それらの議論の前提に表象主義が正しいということがあり(それは「最小の表象主義」を使って証明済だ)、では次にそのrepresentationの詳しい分析としては何がいいかなという階層の話をしているのに、ここでperception自体に関する理論(=disjunctivism)という一階層上の問題圏を扱うものを持ち出しても大丈夫なの……?ということであったようだ。言い換えれば、disjunctivismは表象主義の正しさを仮定すると確かにうまくいかないかもしれないが、もっと別のフィールドではうまく志向性とperceptionを説明する能力があるかもしれないじゃん、ということである。本当に大丈夫なのか。

とはいえ、確かに心の哲学での素朴実在論はいまいちな気がする。ということはdisjunctivismもいまいちな気がするということだ。本当にいまいちなのか。

わからない。

まだ、選言主義テーゼとして変則的な登場をしたdisjunctivismの概要を知って、自分が何にもやもやしているのか、ということがわかっただけだ。これでdisjunctivismへの批判がよくわかれば次に進める。早くわかりたい。