色とりどりの棒

わかりたい

『深い河』は目的論的すぎると思う

 

https://newmasterpiece.bandcamp.com/album/the-trip-that-nothing-learns

 

最近再び、生活の中のインド成分が濃くなってきておる。インドカレー屋に行く頻度が上がり、自分でもナンを作ろうとして焦がして失敗、インド映画を何本か観た。もちろん王も称えた。

その一環で、遠藤周作の『深い河』を読んだ。バラナシとガンジス河の物語だ。

 

『深い河』を読んだことがある人は、どういう感想を抱いただろうか。僕は全く納得いかなかった。

大変ざっくりと話の内容をまとめると、日本人たちがバラナシへ向かうツアー旅行に参加する。彼らはそれぞれ、過去に苦悩や特別な感情を残してきてしまった。彼らは過去に、愛妻を失ったり、戦争で傷を負ったり、特に何というわけではないけどもやもやした感情を抱いたりした。彼らがガンジスのほとりに立つとき、その心象は変容し、或いは解決してゆく………というのが大体のあらすじだ。

 

しかしまず気になったのは、それぞれ「○○の場合」という章で語られる主要人物(=複雑な内面を持った人物)は、ただ一人を除き男性、それもほぼ中高年男性であることだ。

ツアーに参加するモブキャラのオバサンたちは、インドの汚さに文句をたれまくり、買い物に右往左往するばかりでガンジスに近づこうとさえしない。内面のない浅薄な人物たちだ。準モブキャラの新婚若夫婦は、夫は強烈な構図を撮ることしか頭にない身勝手な写真家の卵という人格で、最後は身勝手すぎてガンジスの河岸をインド人につまみ出される。妻に至っては新婚旅行はヨーロッパがよかったと言い続けるだけで「インドの魅力」をわかろうともしない。

 

この書き分けには女性蔑視的なものも感じてしまうのだが、まあそれは置いておくとして、「内面のある人物」がガンジスから何かを享受しているのと対照的に、「浅薄な人物」がガンジスから拒絶されているような書き方は、僕がバラナシという街に行った印象から程遠いものだった。実際のガンジスのガートは、人間に内面もなにも気にしていられるものではなく、巡礼者、詐欺師、アホ外国人旅行者、牛、犬、汚物、死体、洗濯物、軍人、凡人、全ている。だからこそあそこは凄いのに。あそこにいる詐欺師にもアホにも死体にも、やはりなにか深い内面があるかも知れないし、そうと見せかけてやはり何もないかも知れない。そこに凄みがある。

 

 

例えばマニカルカーガートは、有名な露天火葬場だ。死体が運ばれてきて、目の前で焼かれる。やはりそれは衝撃的な風景だ。バラナシを描いた作品でこの場所が登場しないことはほぼないのではないか。『深い河』でも重要な意味を持つ場所だ。

そのマニカルカーガートはバラナシの中でも特に混沌としている。遠藤周作はその混沌の中に何か宗教的な畏怖を感じて、それがあの作品の骨格になったのかもしれないが、畏怖しているどころではないくらい混沌としている。『深い河』の世界観とは違い、そこには「内面のない人物」も「浅薄な人物」も共存していると思う。

僕があそこで火葬を眺めていたときは、喪主の息子らしき人が遺体が首尾よく燃えだしたことを確認すると暇そうにスマホをいじりだして、わりと衝撃を受けた。まぁそんなもんかな~、とも思った。その後いかさまガイドに終始つきまとわれて大変だった。前日ハッパをやったという日本人が「めっちゃ二日酔いです……」と話しかけてきた。彼はガンジスに直接ゲロしたらしい。最低だけど笑える。かと思えばちゃんと、真剣に祈りを捧げたり、家族の死を悼んで泣く人もいる。わけがわからない。

ガンジスは、敬虔なヒンドゥー教徒も、ゲロ吐いてる日本人も受け入れているのだ。ゲロ日本人は思慮の浅さの極限のような存在だが、ちゃんと神聖なるガンジスに存在している。

 

『深い河』のガンジスは、遠藤周作の描きたかったことに寄り添いすぎている。そのガンジスは、目的論的すぎる。

遠藤周作は、自分の中にあるキリスト教的な問題意識が強すぎて、街への眼差しは色眼鏡を通しすぎていたのではないか?彼がバラナシに行くには事前から明確な理由がありすぎて、極端にいえばそれに沿った眼差ししか持ち得なかったのではないか?『深い河』は、彼がガンジスを見る前に大方筋が決まっていたのではないか?実際のガンジスは、それを風景で彩る添え物に過ぎなかったのではないか?

 

なんでこんな長文になってしまったのか、敷衍すれば結局のところ、旅って何のためにやっているのだっけということの認識について、遠藤周作とは全然意見が合わなかったということな気がする。

僕は、旅は必ずしも、予め心の中に用意した空白をパズルのピースのように嵌めて埋めるという行為だとは思わない。心に空白がなくても、ちゃんと旅はできる(あってもできる)。

空白を持つ人が旅でそれを補完できるのならそれでよいけれども、それが唯一の旅の正解ではない。旅に出たことで逆に空白地帯ができるかもしれないし、何の準備もなく知らない場所に行って結局何も得られないこともあるだろう。それの何が間違っているのか。インドまで来て買い物に奔走するオバサンの何が間違っているのか。それを見下す権利が誰にあるというのか。

 

仮に僕が『深い河』の登場人物なら、さしずめ思慮の浅い写真家の卵というところだろう。小説では思慮が浅すぎてインド人にリンチされそうになったところをうまく逃げて反省もしないというクソ野郎の人格だが、クソ野郎もクソ野郎なりの旅をして、深い心の空白を抱えた人と同等にガンジスに立つ権利がある(迷惑をかけてはいけないけれども)。神聖でありながらクソ野郎にもその権利を与えるからこそ、逆説的に、遠藤周作も僕もガンジスに惹かれるのではないかと思った。

 

ガンジスについて考えていたら腹が痛くなってきた。