色とりどりの棒

わかりたい

精神疾患と詐病

 

偉そうに意見しているっぽいけど実は何も勉強していない。

 

ちょうど1年くらい前、何か重大な不幸があったわけでもないのだけれど、なんだか生きる気力的なものがなくなってしまって、休日は一日中寝ているような状態、でも頑張って誰かに会いに行くと意味不明なくらい楽しくなってしまい それはそれで相手方に非常に迷惑という感じで、自分本人としても 周りの人に対しても結構困ったことになっていた。(その後治った。)

 

そんな日々へ、オウム死刑執行のニュースが来た。死刑制度自体がこの上なく恐ろしいことだが、今回はさらに恐ろしい死刑だった。その執行は「劇場型死刑」などと批判された。情報がリークされたのだか知らないけど朝から報道局が拘置所に詰めかけたらしいとか、某放送局は死刑囚の顔写真に、執行されると×印のステッカーを貼ってそのことを速報で知らせたとか、元号が替わり祝賀ムードになる前に執行したかったのではないかとか、何かと怖く、ねじ曲がった勧善懲悪の薄暗い喜びがあり、最悪だった。(そして令和になった今、思い通りそれらはあっさりと忘れられてしまったようだ)

とにかく、この一連の執行劇があって、より一層無気力が進行してしまった。

 

溢れかえる報道の中で、気になったのが「麻原は詐病使いだったのではないか」ということだった。つまり彼は、意味不明の供述をする、挙げ句誰に対しても沈黙を通すなど、精神的な病を患っているように見えるが、これは死刑を避けるためにわざとやっている「詐病」だったのではないか、というわけだ。それも世間を賑わせていたが、自分には断然よくわからなかった。

 

「病を装うこと」自体は、学校や会社をさぼりたいので風邪のふりをするとか、まあある意味で日常に溢れていることだ。しかし、精神疾患についての詐病とは、一体どういう状態を指すのだろうかと考えると、よくわからない。身近にも、仕事で追い詰められて病院から診断書をもらった人に「あいつは労災認定を受けるために鬱病の診断書をもらったのではないか」、などと陰口をいうという嫌な話があるが、本当に鬱病だったのかどうかという話題の前に、本当の鬱病とは一体なんなのか、それは労災認定という実務的な処理と切り離して考えることができるのか、ということが気になるのだ。

例えを戻して、囚人が、自らに刑(危害)を加えようとしている刑事などに対しては精神病的に振る舞い、支持者に対しては一変普通の態度をとっていたとしたら、やはり彼は詐病だったということになるのか?考えてみると、それさえも自明ではないと思う。その振る舞いの豹変自体を病として評価できる可能性が理屈としてはあり得ると思うからだ。しかし本当にそのような評価をし得るなら、話が無限後退してしまう気配がある。

では一方で、去年の自分は、本当に(軽度の)鬱病状態だったのか?病院に行ったわけでもないのでその評価を知るはずもないが、その「症状」を経験した本人として、それが少なくともかなり辛い状態であったことは、一人称的に閉じた感覚の範疇でなら、嘘ではなく断言できる。(もちろん、その信憑性は別問題だ)

 

このような一人称的な感覚の不具合だけを根拠として精神疾患を定義してしまうと、どれだけ「詐病であることが確からしい状況」でも詐病はあり得ないことになる。激しい外的な苦痛(肉体的な問題の発生、近親者の死など…)を受けたように見受けられる人と、直観的にさぼりのための詐病に見える(仕事のときだけ都合よく体調を崩すなど)人を、完全に同列に扱うのは効果的だろうか?また病はどこまでも私秘的なものに後退し、その診断があまりにも難しすぎる。さすがにそれも不都合があるだろう。

「君はただ仕事に行きたくない、嫌いな人に会いたくないだけで、病気でもなんでもない」と専門家に言われたとしたら?私はどう反論すべきなのだろうか。

 

では逆に、体重が減るとか脱力しているとか、あるいは脳内で特定の物質が分泌されていないとか、そういった物理的な条件が基準となって定義するのがよいのか?鬱病に対して投薬治療をしたり、昔のかの空恐ろしきロボトミー手術はこの発想に基づいているはずだ。しかしこの場合は、例えば患者が長年酷い環境下に置かれ、辛い精神状態を訴えたような場合でも、特定の物質の分泌低下などが認められなければ病ではないことになるのか?直観的には、それもあまりよい解決策には見えない。

 

それならもっとプラグマティック(?)に、治療に注目した考え方もあるだろう。病自体を定義するのではなく、患者のある不都合な状態Aを治し得る手段がBかCであるような場合、Aを精神疾患とする、しかし手段がDならば(例えば)それは心臓病だし、Eならば歯周病だ、みたいに定義することもできそうだ。しかしその場合、詐病の扱いはどうなるのだろうか。よくわからない。第一、最近では治療とはなんなのか。国が勝手に定めた方針のもと、望まぬ「治療」を受けさせられてしまった人たちがいて問題になった(※これを書いた頃は障碍者への不妊治療が問題になっていた)。直感に反し、「治療」という行為は必ずしも患者の意思に対してプラスに働くことになるとは限らないようだ。治療が成功するということは、どういうことなのか。それはかなり多義的であるように思う。

 

あるいは極論、例えば精神疾患は文化的な共同幻想でしかないため、実在しないという主張もありそうだ。「心」自体が実在しないという主張は哲学では全く異端ではないので、そうすると実在しない心に対する疾患も当然実在しないだろう。しかし僕は大学でいろいろ見聞きした結果、心はまぁあるんじゃないかなと考えているので、議論に無知なままこれにいくのは嫌だ。

 

精神疾患とその治療、精神疾患と障碍の違い、などについては、哲学的な議論があり、専門書もたくさんあるようだ。多分、もっと単語を慎重に丁寧に使い分けなくてはいけないのだろう。いろんな意見を知りたくなってきた。勉強してみたい。