色とりどりの棒

わかりたい

内容には全く触れないゴジラ論

シン・ゴジラ』を観た。めちゃくちゃ面白かったので2回観た。

ヒョーーッ、蒲田のゴジラ、キモーーっ!ウオーーッ、というかめっちゃエヴァっぽいじゃーーん!イェーーイ、無人在来線爆弾、サイコーーっ!

あー楽しかった、おわり。基本的には完成品を数回観ただけで我が物顔で語りだすの、自意識という感じになってしまうのでやりたくない。だからあー、これはきっとこういうことなんだろうなという場面はいくつかあるけど、感想はこれくらい頭の悪いのでも許されてほしい。

で、これから凄まじくどうでもいい哲学っぽいことを書きます。無駄に長いので読まなくてもいいです。

全然映画の本題と関係ないんだけど、宣伝にあった「現実vs虚構」というキャッチコピーが気になって仕方ない。「現実」が東京の街並み、政治家や自衛隊などで、「虚構」が怪獣ゴジラで、それが戦うと言いたいんだろうとはわかる。けどこの「現実」のほうだって、映画の中の虚構じゃないか。だったら言葉は正確に、「虚構vs虚構」というキャッチコピーに変更にしよう!

…というのは冗談だけど、この虚構とフィクション作品のあり方はどうにも悩ましい。ひとつにはフィクション作品の中に登場するすべての事象は虚構であるといえるか。例えば作品内に出てくる法律は実際にある条文であり得るので、虚構と断ずることは到底できない。では実際に存在する自衛隊の兵器は?それを使う匿名の自衛隊員は………?

あと完全に虚構であるゴジラが現実味を帯びているってどういうことだよ。こんな具合にわかり砂漠が分布しており、いろんな哲学者がフィクションについて悩んで、可能世界意味論を持ち出したり、「ごっこ遊びの理論」、フィクションの非決定論、その他意味論や統語論からいろんな案が提出された。

とりあえず僕はゴジラの「現実味」がどこから来るのか考えた。またあのキャッチコピーからわからなさが始まったので、それに沿って考えた。

(後日補足:厳密に言えばこれは伝統的な分析哲学の課題ではない。なぜならそれらは主に言語的なフィクションについて検討しており、非言語的な「現実味」はむしろ美学の問題として扱われてきたようだからだ。とはいえ最近では言語行為論とかを持ち出して、メタ的な議論も始まっているみたい。まだ途中だけど、清塚邦彦『フィクションの哲学』参照。(後後日補足:「伝統的な分析哲学」ってなんだよという質問を頂きました。ちゃんと読んでくれている方がいるというのはちょっと気が引き締まる。答えとしては、すみません適当なこと言いました知りませんということに尽きます。哲学何もわかってないということが最近わかりつつある。))

まずあそこで「現実」と呼ばれているものをフィクションⅠ、「虚構」と呼ばれているものをフィクションⅡと名づける。すると『シン・ゴジラ』という作品自体の現実味は、第一にフィクションⅠの表現、文化的背景、設定などが限りなく実際の世界に似せてあること、つまりフィクションⅠのいわば「透明性」に由来している。しかしそれだけでは現実味の条件は満たされない。フィクションⅡは純粋な虚構なので、現実世界の範囲内では想定しにくいような設定が許される。しかしここで重要なのが、フィクションⅡがフィクションⅠに対して与える現象は、フィクションⅠの中だけで規定され得るものでなければならない。例えばフィクションⅡであるゴジラが「魔法を使って東京に虹色の雨を降らせる」などの設定があってしまっては、フィクションⅠ内にフィクションⅠで規定できない現象(ここでは虹色の雨)をあたえてしまうため、現実味はないといえる。ゴジラが体内で核反応しようとなにしようとゴジラの勝手だけど、東京の街はしっかり燃えたり崩れたりして、現実的なやり方で破壊されないと困るというわけだ。

そんなこんなで、ゴジラなどの純粋な虚構が「現実味を帯びる」ための条件は以下の二つである。

1、フィクションⅠが現実世界への透明性を所持していること。

2、フィクションⅡはフィクションⅠに対して、フィクションⅠが規定する形式の現象しか与えてはならないこと。

うん、これでひとまず満足した。春学期に分析美学の授業で読んでいた絵画の真正性に関するカルヴィキとかいう人の論文で、似たような話があった。たしか「一体、ドラゴンのリアルな絵とは何か?」という話だった(この話はあくまで論文の補助的な命題だった)。

僕がゴジラのキャッチコピーからつらつら考えた結論を当てはめれば、ドラゴンの絵のリアリティーは、ドラゴン(フィクションⅡ)がおかれた環境(フィクションⅠ)によって決定される。「環境」は、ここでは光の当たり方や反射の仕方など原始的な要素も含まれる。従ってこのような要素が現実に対して透明性を担保していれば、ドラゴンの背景が現実離れした悪魔の城であろうとホグワーツであろうと、本質的な問題にはならない。悪魔の城やホグワーツ(フィクションⅡ)が、さらにミニマルな透明性のあるフィクションⅠの要素、例えば樹木、水や空のあり方や光の当たり方、反射の仕方などに規定されていればよいのだ。当然、フィクションⅡとして扱われるべき要素が増えれば、その分リアリティーは減少する。だから、作品内にフィクションⅡ要素がゴジラしかない『シン・ゴジラ』のほうが、悪魔の城を背景に炎を吐くドラゴンの絵よりは現実味が多い。このように、地雷臭しかない純粋虚構自体の「それっぽさ」について触れないまま、作品全体としてのリアリティーに説明がつく。

あとはフィクションⅠの透明性を定義できればなんか面白いレポートができそうだ。ちょっとわくわくしてしまった。しかし今のところ発表する機会もなさそうなのでブログで独り言のように書きこんでみた。もちろんこれだけじゃ穴もたくさんありそうだが、ともあれこういう形式的でかっちりした思考が好きだ。退屈な学校への道のりがあっという間に過ぎたりする。やっぱ学校はちょっと遠すぎるけど。

以上、山手線で書いて小田急で手直しした小論文でした。

乗ってる山手線の列車が「有人在来線爆弾」になっちゃったら、ちょっと困るよね。

少しだけ人間味のあるマシーン

塾の個別講師をしている。今は大学受験を控えた生徒を持っているのだけど、今日彼が定まらない進路について「やっぱり学歴で恥をかきたくないし勉強頑張らなくちゃ」みたいなことをいっていた。

塾講師してる間はものすごーく優しくにこやかに振る舞うようにしているのだけど、そういうちょっとした言葉にはカチンときてしまう。学歴が理由なら大学の四年間絶対つまらないよ、つまらない四年間のために今から勉強漬けになるの馬鹿みたいだからやめちゃいなよ、みたいなことを今日も言ってしまった。そうはいっても周りの大人に学歴を期待されて高い学費を投じられて、そういう価値観を植えられているのだから、ここでそんなことを機嫌悪く言っても仕方ないよなぁ、と今になっては反省しきりだ。いつもその繰り返し。しかも生徒は「そうですよね……」としょんぼり納得してしまうのが尚更辛い。

僕は四年間続けているこの塾講師アルバイトが大好きだ。苦手な子が口を揃えて言う「文系は暗記」という固定観念を打ち破ってやるぞ、とそれなりに意志に燃えてやってきた。文章を読む楽しさをわかってもらえた気がするし、成績もかなり伸ばしてきた。しかしこういうことがある度にわからなくなってくる。

僕は一応誰もが知る有名大学に通っている。生徒は自分を目標として見てくれる。誇らしいことだけど、それは僕を「努力して勝ち組になった人」として見ているからだと思う。でもそれは屈辱にまみれた誤解だ。僕はちゃんとやりたいことがあって勉強して大学に来たつもりだ。勝ち組になりたいなんてモチベーションじゃなかったし、それだけで勉強できるほど真面目じゃない。やりたいことに勝ちも負けもないだろーが、と感情的になっちゃう。(こういう考えも結局親に由来しているのだけど。ちなみに僕は人生のどの段階でも塾というものに通ったことがない。) 

でも、端からみればやっぱり勝ち組なのかも知れない。ちゃんとした家に住んで、有名私立大学に親のお金で通っている。今の日本ではそれはとても恵まれたことになりつつある。僕は自分の努力以前に、いつのまにか勝ってしまっている。生徒のほうも高い授業料を払って個別塾に通わせるような教育方針の家庭なのだから、僕の置かれたような環境や大学のネームバリューは親御さんにとっても憧れの対象なのかも知れない。

さて、そんな奴が先輩面して勉強を教えてきたら、どんな気分だろうか。しかも呑気に「学歴だけが理由なら大学行くな」とか言ってきたら、どんな気分だろうか。自分なら耐えられないのではないか。そう考えるとなんだか胃がムカムカしてきた。 

もちろん、生徒にこんな個人的な悩みは言いたくないし言わない。自分はこの中途半端な立場では、勝ち組であり強い存在としての役割を演じなければならない。きっと求められているのはそういう存在だ。そうであるならせめて、僕はしっかり勉強をアシストしてちょっと身の上相談に乗るだけの、「少しだけ人間味のあるマシーン」にでもなりたい。マシーンなのでいちいちこんなことで悩まないでしっかり知識を伝授する、そしてただ少しだけ優しさ、厳しさといった人間味を演出する。そういう風になりたい。

おお、まじでどうしようもない結論だな。でもこの半端な立場に留まる限りそれ以上のことをできそうにない。

仕方ないから泡盛でも飲みます。個人的に泡盛にはメンデルスゾーンという感じがする。

 

 

いつか酒の肴になってくれ

8月が終わった。

ちょっと区切りっぽいのでブログ作成してみた。

今さらブログを始めた一番の目的は、今まだ社会に出ていない状態でこういう散文的なものを書き溜めておいて、いつか社畜や中年オヤジや瀕死の爺さんになったときに読み返して、自分で爆笑したいから。

今でさえ中学や高校のときに書き溜めた文章や楽譜を掘り出して読むとほんとに爆笑するんだけど、そういうコンテンツが増えたら将来のお酒の肴になるのでいいです。12年もの発酵食品 みたいな。楽しみだ。

とはいえ、しっかりアピールとかしてばりばり書こうとすると意識がそっちに向いてしまうので、ものすごくひっそりにする。というかしばらく公開はしない。

ということでわざわざこれを読んでくれた方、どうもありがとうございました。どういう方向に進むのやら。