色とりどりの棒

わかりたい

カメラ趣味をどう始めるか

 

ここのところ奮発して念願のフルサイズ一眼カメラ *1 を手に入れ、あちらこちらで意気揚々と撮影している。軽量化された機種であるとはいえ、首から下がるずっしりとした質量からは、その出費の大きさを否応なく感じさせられる。因果な趣味だ。

撮影対象については、鉄道、山岳、街、樹木、花など、色々試している。私はカメラの専門知識は持たない身だが、その主題に合わせたF値シャッタースピードの設定、構図などを考えるのは素人なりにも楽しい作業だ。

 

一方、Instagramなどを見渡すとすぐに発見できる「出来過ぎ」の写真、これは少し私には受け入れられない。

例えば、吉野の桜が満開に咲く情景。素晴らしいシチュエーションは当然ながら、レンズの力、そして最強のツールであるAdobe Photoshopの力も加わって、空や大気までピンク色に染まっていたり。

または、東京の夜景。ブラケット撮影とHDR合成を駆使したのだろう、新宿の飲み屋街がCGのような世界観になっていたり。(往々にしてハッシュタグは 「#ファインダー越しの私の世界」。)

 

こういった作品は、初見では本当にあっと驚く格好よさがある。しかしふと冷静になると「この写真を何のために撮っている(そしてフォトショで加工している)のか?」というのがだんだん分からなくなってくる。

なぜなら、あまりにも画像が直接視認する風景と異なってしまっているからだ。桜が主題なら空もピンク色、都市夜景が主題ならCGチックに、というのは安直かつ過度な風景の理想化だと思う。「過度な理想化」によって、現実の上手くいかなさや世界の雑味を隠しきった画像からは、格好よさの感慨が去った後には、かえって不気味さの引き波が押し寄せてくる *2

 

よく言われることだが、写真という媒体は、世界の素描写でもありながら、一方で同時に撮影者の生み出した表現作品でもある、境界的な存在である。写真というものがもとより境界的な媒体であるなら、撮影する上で「素描写」「表現作品」のどちらか一方の方針を選択する必要はない。

しかしこの数直線上で自分はどこに立つのか、そのスタンスは一応定義させておきたい。

あまり素描写の側に寄りすぎると、まるで免許証の証明写真のように無味なものになりそうだ。これではせっかくのフルサイズ一眼も活躍しない。一方で表現作品の側に寄りすぎると、前述のように「安直な理想化」現象に陥る危険がある。これは私のような素人が最も気を付けるべきことであるように思う。

私は、そのどちらにもカメラという道楽の意味を見出せない。

 

随分と偉そうなことを書いておいて、結局自分のスタンスは定まっていない。というか、スタンスというのはカメラが手に馴染んでくれば自ずから決まるものなのだろう。

それまではあちらこちらに出向いて、たくさんの風景を満喫しながら、とにかく色々とシャッターを切っていきたいと思っている。楽しみたい。

 

 

*1:sony α7Ⅲ

*2:個人の見解です…すみません。