色とりどりの棒

わかりたい

絵画を撮る

 

最近、上野の国立西洋博物館にキュビスム展を見に行ったとき、その展示作品の多さに圧倒されるとともに、頻りに展示物にスマートフォンを向ける観客たちには少しうんざりした。正直にいうと、撮影するときのパシャ―という音がかなり耳障りなのだ。それに、保存された数十メガバイトのデータは、後で美術館で作品を鑑賞する鮮やかな思い出を撮影者に呼び起こすはずがない。よほど独特の構図や切り取り方でもしない限りは、写真のことなんて忘れて目の前にある作品自体を鑑賞する方が、よほど甲斐のある行為なのに。もったいない。

絵画のように、ことに誰かの強い思いが込められているものを安易に撮影するのは、私は賛同できない。

 

ところで、祖父は晩年油絵を描くことが好きだった。今からするとそれもかなり前のことだが、その祖父が亡くなって暫くしたころ、いくつかの主要な作品を残して他はやむなく処分することになった。仕方のないこととはいえ、私にはそれがとても辛い決定だった。それで、せめてもとの思いで一眼カメラでひとつひとつの作品を撮影し、画像を現像してアルバムブックにまとめることにした。絵画は、なるべく正確な露光環境で、アスペクト比を揃えて真上から正確に撮影した。撮影から現像を含めると、作業はほぼ丸一日かかった。祖母にプレゼントすると、祖母はとても泣いていた。そして撮影し終わった作品は、焼却した。

これは祖父が亡くなってからもう五年以上経った頃の出来事だ。時間が経っても (経った故に?) そのアルバムブックは、祖母に過去の鮮やかな記憶を呼び起こすことができたのだと思う。それは私にとって、悲しくもあり同時に誇りに思えることだった。

 

こういうことがあったから、美術館に行って撮影OK作品の写真を頻りに撮っている人のことを全否定するわけではない。もしかすると、その行為に何か特別な思いがあるのかもしれないし。ただ大体の場合はそんな事情なんてなくて、恐らく何となく撮って後でinstagramに投稿するのが関の山。であれば、やはり現前する作品自体をしっかりと目に焼き付けるのが一番だとは思う。