色とりどりの棒

わかりたい

『酒中日記』を久しぶりに読んだ

 

私は国木田独歩が好きで、といっても熱烈なファンというわけでもなく、忘れた頃にまた読むと やっぱりいいなあ と思うだけなのだが、最近は『酒中日記』に収められている「巡査」という超短編が特に心に残った。あらすじはこうだ。

 

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ある巡査と懇意になった主人公は、彼のひどく狭い家に招かれる。巡査は色々と喋りながら酒を飲み、やがて「自分が巡査という身分でありながらこうして昼間から飲酒しているのは正当である」という理論を自作の漢詩で披露する。そのうち彼は酔っ払って寝落ちしてしまったので、主人公はそっと帰る。そんなこんながあって、主人公はその巡査をとても気に入ってしまった。

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「巡査」はおおよそこれだけのお話なのだが、『酒中日記』に収められているのはどれもまあ大体こんな感じの話だ(多分)。時に登場人物は悲劇的な過去を抱えていたりもするが、結局は彼も飲酒しながら主人公に辛い身の上話を披露する、的なストーリーである。

 

何年かぶりにこれらの短編を読み返したところ、ふと私自身が「偶発的な出会い」に飢えているのではないか、ということに思い至った。

「偶発的な出会い」とは、偶然そこに居合わせただけで、お互い特に利害関係で結ばれていないし、一度別れたら人生で二度と会うことはない可能性が高い、というタイプの出会いである。国木田の小説にはそういうタイプの「ゆるい人間関係」がたくさん出てくる。(いや、正確には、個々の「人間性」はそれぞれつよいのかもしれないが、個と個の間の「人間関係」がゆるいのだと思う。)

 

私にだって、こういう偶発的な出会いはまあ色々な場面であった。新宿の「岐阜屋」によく一人で行っていたから、その時々で隣の席になった寂しげなおじさん。中国の夜行列車でたまたま同じコンパートメントだった北京大学の学生。深夜の海辺の街で津波警報のサイレンが鳴り響き、一緒に山に向かって逃げたおばさん。他諸々。

 

あの人々は別に出会いたくて出会ったのではないから、互いの共通点は全然なかったりする。全然共通点がない人と時間を共有することになるのは面白い。そうこうしているうちに案外話が弾んだりするともっと面白い。

また、あの人々ともう一度会おうと思ってもほぼ100%不可能だろうが、逆説的にだからこそ腹を割って話すこともできたりする(なにせ、どうせもう会わないとわかっているのだから)。腹を割って話せば、やはり気持ちがすっきりする。

あるいは偶発的な出会いが残念ながらクソみたいな出会いで、大喧嘩(?)になって終わることもあったが、それはそれで、今後もう会わないので良し。

 

こういうタイプの出会いが、最近めっきりなくなってしまった。それはそうだ、自分から出会いを求めなければならない訳ではないにしても、そのような環境に赴かない限りは何も起き得ないのだ。

にもかかわらず最近は、一日中家に籠っているか、出かけるにしても何か目的を持っていることばかりで、その目的を達成したら一目散に帰っていたのだった。

 

ふらふらと散歩したり酒を飲んだりして、そこでその場限りのゆるい交流が生じるかも知れないし、何の交流もないかもしれない。仮に何かあったとしても1週間後には忘れているかも知れないし、一生忘れないかも知れない。

そういうようなモードがないと、そのうち心を健康に保てなくなるだろうと思う。国木田独歩の小説をまた読んで、そんなことを考えたのだった。

 

 

私は「出会い」なんていう言葉を多用するのは嫌悪感があるのだが、なぜかこんな文章になってしまった。

とにかくそういうわけなので、まずは近日中に一人で飲みに出かけるつもりである。