色とりどりの棒

わかりたい

絵画を撮る

 

最近、上野の国立西洋博物館にキュビスム展を見に行ったとき、その展示作品の多さに圧倒されるとともに、頻りに展示物にスマートフォンを向ける観客たちには少しうんざりした。正直にいうと、撮影するときのパシャ―という音がかなり耳障りなのだ。それに、保存された数十メガバイトのデータは、後で美術館で作品を鑑賞する鮮やかな思い出を撮影者に呼び起こすはずがない。よほど独特の構図や切り取り方でもしない限りは、写真のことなんて忘れて目の前にある作品自体を鑑賞する方が、よほど甲斐のある行為なのに。もったいない。

絵画のように、ことに誰かの強い思いが込められているものを安易に撮影するのは、私は賛同できない。

 

ところで、祖父は晩年油絵を描くことが好きだった。今からするとそれもかなり前のことだが、その祖父が亡くなって暫くしたころ、いくつかの主要な作品を残して他はやむなく処分することになった。仕方のないこととはいえ、私にはそれがとても辛い決定だった。それで、せめてもとの思いで一眼カメラでひとつひとつの作品を撮影し、画像を現像してアルバムブックにまとめることにした。絵画は、なるべく正確な露光環境で、アスペクト比を揃えて真上から正確に撮影した。撮影から現像を含めると、作業はほぼ丸一日かかった。祖母にプレゼントすると、祖母はとても泣いていた。そして撮影し終わった作品は、焼却した。

これは祖父が亡くなってからもう五年以上経った頃の出来事だ。時間が経っても (経った故に?) そのアルバムブックは、祖母に過去の鮮やかな記憶を呼び起こすことができたのだと思う。それは私にとって、悲しくもあり同時に誇りに思えることだった。

 

こういうことがあったから、美術館に行って撮影OK作品の写真を頻りに撮っている人のことを全否定するわけではない。もしかすると、その行為に何か特別な思いがあるのかもしれないし。ただ大体の場合はそんな事情なんてなくて、恐らく何となく撮って後でinstagramに投稿するのが関の山。であれば、やはり現前する作品自体をしっかりと目に焼き付けるのが一番だとは思う。

 

 

契島

※この記事には問題行動が含まれているので、真似をしないようにお願いします。

 

さて次の国内旅行をどうしようかと考えるとき、よく使う手段が「Googleマップで当てもなく航空写真を見る」ということである。ある日、ちょっとだけ仕事をサボりつついつものように航空写真で瀬戸内海周辺の上空を徘徊していると、何やら怪しい島影を発見した。

 

それが私の契島との出会いだった。

 

航空写真。 https://www.google.com/maps/@34.2969528,132.9028717,697m/data=!3m1!1e3?entry=ttu

 

契島は全体が余すことなく厳めしい工場になっており、その見た目はまるで長崎県軍艦島*1のようだ。しかし、軍艦島は既に役目を終えた廃墟なのに対して、こちらは現役。そうなれば、俄然この目で契島の光景を眺めたいと、いう欲求が生じてきたのである。

 

もちろん全く観光地ではないし、どんな場所かも分からない、それに関係者以外は島への上陸が許されていないとの情報もあり、不安要素しかない。同行者に迷惑がかかるかも知れないので、今回は一人旅と決めて、呉線の竹原駅へと往く。

 

竹原駅から三井の大きな工場を横目に歩き、契島航路の船着き場と思われる場所へ向かった。しかし、小さな桟橋に停泊している船には人影がなく、近寄ってみても一般旅客船かどうかさえ分からない。瀬戸内の静かな波に停泊船がゆられて、ちゃぽんちゃぽん、という音だけが響いている。不安な気持ちで40分ほど逡巡していると、向こうの方から一人の男性がやってきた。そして彼は迷うことなくその停泊船の客室に乗り込んでゆくではないか。

そうとなればこの船が契島行に違いない、ということで、すかさず(しかしすました顔で)私も乗り込む。しばらくすると運転手さんらしき方も乗り込んできて、何のアナウンスもなくタラップを外していざ出航。ゴゴゴゴゴ。

 

こうして、部外者の私にとってはとんでもない航海が始まってしまったのである。

船室

 

酷暑の竹原港を出て、涼やかな海風に吹かれながら景色を眺めていると、緑の多い瀬戸内の島にあって明らかに異質な島が浮かんでいるのが見えてきた。これが契島だ。遠く瀬戸内海まで来て一体何をしているのだ、という後ろめたさと相俟って不思議な感慨がある。

契島遠景

近づいてくる

 

島が近づいてくると、ディテールが明らかになってきた。中央にはひときわ高い煙突が聳え、北側には「ケーブル敷設・投錨注意」の黄色い文字。島で働く方々のものだろう、住居のようなものも見える。

やがて契島の桟橋に到着すると、3人ほどの乗客は黙って船を後にしていった。

 

……あれ?運賃はいつ払うのか?

 

ここで、この航海が私にとって大変問題を孕んでいたということに気づいた。そもそも竹原-契島航路は、契島で働く社員専用なのであり、部外者が乗ってよいものではなかったのだ*2。社員は無料で乗船できる為、運賃の徴収システムも存在しない。私は社の専用船に(広義の)無賃乗車をしてしまったわけだ。申し訳ない気持ちと居たたまれない気持ちを抱えながら、そうはいってもこの地で船から追い出されたとしても当然行き場はないわけで、船で待機するしかない。そして、帰りの船が出るまでは50分もあるらしい。

幼少期の、何か隠していた悪事が露見したときのような感覚、自分が小さくなってしまう感覚に身がすくんだ。

 

さて、目の前にはコンクリートで固められた海岸線をはみ出すようにして、所狭しと工場設備が配置されている。桟橋の向こうは現役の亜鉛精錬工場の世界で、安易な立ち入りは命に関わる。船にいても独特の金属的な匂いや絶え間ない機械音が混ざり合い、ここが普通の島ではないことを五感で味わうことができた。

 

 

小型船での50分間が過ぎたようで、ようやく再びエンジンがかかった。出航直前になると、工場での仕事を終えた方々が次々に乗り込んでくる。皆さま、本当にお疲れ様です。

この船において仕事もせずにふらふらと迷い込んできたのは、まったく私だけなのだ。そのことが情けないような、申し訳ないような、しかし行きたいと思った場所に本当に行くことができた達成感があるような。

船が竹原に到着すれば、そんなごちゃ混ぜの気持ちに急かされて、港を振り返ることもせずにそそくさとその場を後にした。

 

 

*1:正しくは端島という

*2:後にわかったのだが、この島の桟橋に合法的に行く方法があるようだ。まず近海の大崎上島旅客船で向かう。そこから生野島方面の町営船に乗り換えると、契島を経由することができる。ただし、同じく契島での下船は不可である。

『酒中日記』を久しぶりに読んだ

 

私は国木田独歩が好きで、といっても熱烈なファンというわけでもなく、忘れた頃にまた読むと やっぱりいいなあ と思うだけなのだが、最近は『酒中日記』に収められている「巡査」という超短編が特に心に残った。あらすじはこうだ。

 

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ある巡査と懇意になった主人公は、彼のひどく狭い家に招かれる。巡査は色々と喋りながら酒を飲み、やがて「自分が巡査という身分でありながらこうして昼間から飲酒しているのは正当である」という理論を自作の漢詩で披露する。そのうち彼は酔っ払って寝落ちしてしまったので、主人公はそっと帰る。そんなこんながあって、主人公はその巡査をとても気に入ってしまった。

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「巡査」はおおよそこれだけのお話なのだが、『酒中日記』に収められているのはどれもまあ大体こんな感じの話だ(多分)。時に登場人物は悲劇的な過去を抱えていたりもするが、結局は彼も飲酒しながら主人公に辛い身の上話を披露する、的なストーリーである。

 

何年かぶりにこれらの短編を読み返したところ、ふと私自身が「偶発的な出会い」に飢えているのではないか、ということに思い至った。

「偶発的な出会い」とは、偶然そこに居合わせただけで、お互い特に利害関係で結ばれていないし、一度別れたら人生で二度と会うことはない可能性が高い、というタイプの出会いである。国木田の小説にはそういうタイプの「ゆるい人間関係」がたくさん出てくる。(いや、正確には、個々の「人間性」はそれぞれつよいのかもしれないが、個と個の間の「人間関係」がゆるいのだと思う。)

 

私にだって、こういう偶発的な出会いはまあ色々な場面であった。新宿の「岐阜屋」によく一人で行っていたから、その時々で隣の席になった寂しげなおじさん。中国の夜行列車でたまたま同じコンパートメントだった北京大学の学生。深夜の海辺の街で津波警報のサイレンが鳴り響き、一緒に山に向かって逃げたおばさん。他諸々。

 

あの人々は別に出会いたくて出会ったのではないから、互いの共通点は全然なかったりする。全然共通点がない人と時間を共有することになるのは面白い。そうこうしているうちに案外話が弾んだりするともっと面白い。

また、あの人々ともう一度会おうと思ってもほぼ100%不可能だろうが、逆説的にだからこそ腹を割って話すこともできたりする(なにせ、どうせもう会わないとわかっているのだから)。腹を割って話せば、やはり気持ちがすっきりする。

あるいは偶発的な出会いが残念ながらクソみたいな出会いで、大喧嘩(?)になって終わることもあったが、それはそれで、今後もう会わないので良し。

 

こういうタイプの出会いが、最近めっきりなくなってしまった。それはそうだ、自分から出会いを求めなければならない訳ではないにしても、そのような環境に赴かない限りは何も起き得ないのだ。

にもかかわらず最近は、一日中家に籠っているか、出かけるにしても何か目的を持っていることばかりで、その目的を達成したら一目散に帰っていたのだった。

 

ふらふらと散歩したり酒を飲んだりして、そこでその場限りのゆるい交流が生じるかも知れないし、何の交流もないかもしれない。仮に何かあったとしても1週間後には忘れているかも知れないし、一生忘れないかも知れない。

そういうようなモードがないと、そのうち心を健康に保てなくなるだろうと思う。国木田独歩の小説をまた読んで、そんなことを考えたのだった。

 

 

私は「出会い」なんていう言葉を多用するのは嫌悪感があるのだが、なぜかこんな文章になってしまった。

とにかくそういうわけなので、まずは近日中に一人で飲みに出かけるつもりである。

 

 

 

カメラ趣味をどう始めるか

 

ここのところ奮発して念願のフルサイズ一眼カメラ *1 を手に入れ、あちらこちらで意気揚々と撮影している。軽量化された機種であるとはいえ、首から下がるずっしりとした質量からは、その出費の大きさを否応なく感じさせられる。因果な趣味だ。

撮影対象については、鉄道、山岳、街、樹木、花など、色々試している。私はカメラの専門知識は持たない身だが、その主題に合わせたF値シャッタースピードの設定、構図などを考えるのは素人なりにも楽しい作業だ。

 

一方、Instagramなどを見渡すとすぐに発見できる「出来過ぎ」の写真、これは少し私には受け入れられない。

例えば、吉野の桜が満開に咲く情景。素晴らしいシチュエーションは当然ながら、レンズの力、そして最強のツールであるAdobe Photoshopの力も加わって、空や大気までピンク色に染まっていたり。

または、東京の夜景。ブラケット撮影とHDR合成を駆使したのだろう、新宿の飲み屋街がCGのような世界観になっていたり。(往々にしてハッシュタグは 「#ファインダー越しの私の世界」。)

 

こういった作品は、初見では本当にあっと驚く格好よさがある。しかしふと冷静になると「この写真を何のために撮っている(そしてフォトショで加工している)のか?」というのがだんだん分からなくなってくる。

なぜなら、あまりにも画像が直接視認する風景と異なってしまっているからだ。桜が主題なら空もピンク色、都市夜景が主題ならCGチックに、というのは安直かつ過度な風景の理想化だと思う。「過度な理想化」によって、現実の上手くいかなさや世界の雑味を隠しきった画像からは、格好よさの感慨が去った後には、かえって不気味さの引き波が押し寄せてくる *2

 

よく言われることだが、写真という媒体は、世界の素描写でもありながら、一方で同時に撮影者の生み出した表現作品でもある、境界的な存在である。写真というものがもとより境界的な媒体であるなら、撮影する上で「素描写」「表現作品」のどちらか一方の方針を選択する必要はない。

しかしこの数直線上で自分はどこに立つのか、そのスタンスは一応定義させておきたい。

あまり素描写の側に寄りすぎると、まるで免許証の証明写真のように無味なものになりそうだ。これではせっかくのフルサイズ一眼も活躍しない。一方で表現作品の側に寄りすぎると、前述のように「安直な理想化」現象に陥る危険がある。これは私のような素人が最も気を付けるべきことであるように思う。

私は、そのどちらにもカメラという道楽の意味を見出せない。

 

随分と偉そうなことを書いておいて、結局自分のスタンスは定まっていない。というか、スタンスというのはカメラが手に馴染んでくれば自ずから決まるものなのだろう。

それまではあちらこちらに出向いて、たくさんの風景を満喫しながら、とにかく色々とシャッターを切っていきたいと思っている。楽しみたい。

 

 

*1:sony α7Ⅲ

*2:個人の見解です…すみません。

八ヶ岳本沢温泉

 

 

大型のザック、テント、寝袋、折り畳み式のガスバーナーなどの登山道具が漸次的に一式揃ってしまい、それには小さくない額の出費が伴ったのだが、そうなると最早行先は丹沢と奥多摩だけではあるまいとなったのは、今から約2年前のことである。

先日寝覚めにスマートフォンを見たところ、Googleフォトという写真を保存するクラウドサービスが、お節介なことに「2年前の思い出を振り返りましょう」などといって八ヶ岳の画像を表示している。朝から本当にお節介なことだ。そうだ、2年前には初めて八ヶ岳に登ったのだった。

 

行先を八ヶ岳にしたのは、やはり東京からの行きやすさがあった。時刻表と山の地図をぱらぱらとめくった結果、佐久平から小海線に乗り換え、小海駅からバスで稲子湯へ。そこから入山し、本沢温泉へと歩く。そこでテント泊をし、2日目は2600m級の根石岳・東天狗岳と踏んで、しらびそ小屋経由で稲子湯へ下山。小海線小淵沢に抜けて、中央本線で帰京、ということにした。

特に無理も危険もない、春ののんびりした北八ヶ岳の周遊コースだ。

 

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せっかく綿密な計画を立てた当の私が寝坊して同行者の友達2人に怒られたりしながら、はるばる稲子湯へやってきた。まだ朝の雰囲気だった。6月初旬の八ヶ岳は新緑の季節にあたり、瑞々しい苔類が美しかった。森林鉄道の廃線跡でもある山道を辿りながら何時間か進むと、やがて明日その頂上に立つ予定の天狗岳が、想像よりずっと高い位置にギザギザした姿を見せている。それまで丹沢と奥多摩だけだった自分には新鮮で心躍る光景だった。

そこからさらに山奥に進むと、本沢温泉にたどり着く。本沢温泉の風呂は、間近に迫る硫黄岳という火山が爆発して、爆裂火口の河原となっている場所にぽつんとひとつの湯舟がある。脱衣室も屋根も水道も電灯もない、(良く言えば)野趣あふれる温泉だ。そのお湯は真っ白で、山行の疲れを癒してくれる。

 

この野趣あふれる「野天風呂」までは、私たちがテントを張った場所から薄暗い山道を10分ほど辿った場所にある。温まってぽかぽかした気持ちになったところで、夕方に私たちのテントに戻り、夕食の準備をしつつ、麓から担いできたビールで乾杯した。幸せだ。

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電灯のない山の夜は、そこで過ごしたことのある人でないと理解できない長さと黒さがある。

夕闇が深くなると、山の様相は一変する。昼には陽を浴びて親和な雰囲気だったシラカバの大木が、いつの間にかそれ自体が黒い大きな影のようになる。向かいの尾根の山肌は夜空に圧倒的な大きさの一枚の黒い壁と化す。沢の流れ、木の葉のざわつきが、正体不明の通奏低音となり、否応なしに聞こえてくる。そして頭上は圧倒的な星空と、それを遮る早い雲の流れ。それが10時間続く。

 

20時を過ぎた頃だっただろうか、もう遅い時間だったが、一通り酒に酔ったところでもう一度あの野天風呂に行こうということになった。ヘッドライトを装着して真っ暗になった山道を辿る。驚くことにこんな時間でも風呂には先客がいたが、私たちが来るとすぐに戻ってしまった。月や星を眺めながらの風呂は心地よかったが、もしいま物の怪に遇ってしまったら、裸では具合が悪いな、などと卑小なことを考えたりした。

 

野天風呂からテント場への山道を戻る途中に、木がないため空の広いガレ場がある。誰が言い出したのか、そこに寝そべって星を眺めようということになった。いや、私が言い出したのかもしれないが、とにかく私はそこで形容しがたい体験をした。

 

立ち止まって自らの靴底が石を踏む音が消えると、本当に山では様々な音が鳴っていることがわかる。そのガレ場は野天風呂へ続く小径と、ここから数キロ登った位置にある夏沢峠への登山道の分岐点だった。

夜のいろいろな音に交じって、夏沢峠の方向に、こちらへ向かってくる微かな足音と熊除けの鈴を聞いた気がした。こんな暗い中で下山する者があるのだろうか。音の主がここまで下ってきたとき、真っ暗な道端にいきなり横たわっている我々を見たら度肝を抜いてしまうのではないかと不安になった。

しかし、足音の主は遂に現れなかった。もうある程度近くまで来ている気がしたが状況は暗くて何もわからなかった。そのとき私の脳内には、AKB48が歌う「会いたかった~会いたかった~会いたかった~Yes!」という1フレーズがひたすら流れていた。この楽曲はもう古典に属するのかも知れないが普段クラシック音楽しか聴かない私には脈絡のない現象で何か不気味だった。突如ガレ場の上部から小動物のギャッという大きな鳴き声が聞こえて、私はもう星の鑑賞どころではなくなり、友達に頼んでテントへいそいそと引き返した。時刻は21時頃だったはずだ。

その晩は2人用のテントを3人で使ったので何かと手狭で、なかなか寝付けなかった。テントが風に打たれてパタパタと音を立てる。いつの間にか闇に紛れてこの小さなテントの周りを人間が取り囲んでおり、テントをそっと手で揺すっているのではないかと思った。外を覗いて確認したい。いや、そんなわけはない、風なのだ。しかし真夜中、テントを揺する人間が3秒後に突如大音量で「会いたかった~会いたかった~会いたかった~Yes!」と合唱を始めるのではないか。その場合私の心臓は即座に停止するだろう。そんなわけのわからない恐怖が脳裏を離れなかった。

 

長い長い夜は、恐れいていた突如の合唱も特になく空けてくれた。きりりと寒い朝だった。

7時頃、3度目となる野天風呂に行った。爆裂火口に着くと、いかにも山男という風貌の男性が、気持ちよさそうに鼻歌を歌いながら浸かっているのが見えた。なんでも近日中に開山祭というのがあり、そこで彼の自慢の喉を披露するのだそうだ。一曲聞いてくれといって、おじさんが硫黄岳の爆裂火口に響かせたのは「365日の紙飛行機」というAKB48の楽曲だった。

山男が歌うAKB48は味わいがあったが、昨日の一連の幻想に現実がリンクしてしまったことで幻想に対して単なる幻想以上の意味が生まれたような気がして私は大いに戦慄した。今一度、いま物の怪に遇ってしまったら、裸では具合が悪いな、などと卑小なことを考えたりした。昨日の存在しなかった足音と熊除け鈴の音の主は彼なのではないかと思ったがそれは不合理な考えだ。彼は八ヶ岳のいろいろなことを教えてくれるとても親切な方だった。

 

テントを撤収して荷物をまとめ、いよいよ頂上を目指して登る段になった。昨晩寝そべって星を眺めたあのガレ場を過ぎ、幻聴が聞こえた夏沢峠の方向へと進んでゆく。幻聴の熊除け鈴は、今は自分のザックから聞こえる。それがなぜか心強かった。

少し登ったところに、野天風呂を上から見下ろせる場所がある。山男はまだ風呂を満喫しているようだったが、もうさすがに「365日の紙飛行機」を歌うのはやめてしまったようだった。やがて登り詰めた天狗岳の頂上は感動的だった。

 

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Googleフォトという写真を保存するクラウドサービスが、お節介なことに「2年前の思い出を振り返りましょう」などといって八ヶ岳の画像を表示した結果、刹那的に思い出したことは以上のような顛末である。

この文章が日記なのか、それとも空想をタラタラと書いただけなのか、自分でもよくわからない。

とにかく本沢温泉は気に入った場所で、実はその年の秋にもう一度訪れた。山に興味があれば、あなたも行ってみてほしい。

 

 

 

ソング・オブ・ラホール

 

私は映画には疎いが、『ソング・オブ・ラホール』はとにかく観てよかった作品だったので紹介したい。

asiandocs.co.jp

 

政治的にイスラム化が進行したパキスタンで、かつては一大娯楽の一つであった伝統音楽は廃れつつあった。伝統音楽の楽団の起死回生の一手として、ジャズのスタンダードナンバーをアレンジし演奏したものを動画に公開、それがバズって世界に拡散、大物トランぺッターであるウィントン・マルサリスの目に止まり、ついにジャズの本場ニューヨーク共演をするまで。その一連を追ったドキュメンタリー映画である。

 

そして、共演の様子は今もyoutubeに公開されている。

www.youtube.com

 

私はこの映像がとにかく大好きなのだが、何がそんなによいと思うかというと、まずラホールの楽団もニューヨークの楽団も、端的に演奏が大変高レベルなことでさる。

ニューヨークでパキスタンの楽団がマルサリスと共演する ― そのイベントには、オリエンタリズムが含まれた興味、言い換えれば、異質な他者に対する好奇が関わらざるを得ないだろう。観客が会場に足を運んだ理由は、必ずしも純粋に音楽を楽しむ為だけではなく、多かれ少なかれパキスタン人がジャズを演奏する面白さに牽引されたからに違いない。*1

しかし映像を見たとき、まず私は、オリエンタリズムなどはここでは取るに足らないものだと感じた。シタールでもトランペットでもタブラボンゴでもサックスでも (つまり国境など関係なく) 舞台音楽に共通して必要なのは、音楽への已むに已まれぬ情熱や、冷徹な技術力だということを思う。情熱だけでは合奏は成立しないし、技術力だけではそもそもこんな公演は実現しなかっただろう。

 

一方で、この映画を見ると、ラホール/ニューヨークの風土、文化、政治、そういった背景がなければ、逆にこのような演奏を引き出すのはおおよそ難しいと感じた。このセッションの魅力には、その演奏のレベルの高さだけでなく、確かにそういった異文化の交わりが一役も二役も買っている。それを挙げなければ嘘になるだろう。

特に映画内には印象的なシーンがある。ラホールの演奏家たちが、紆余曲折の末に遂にニューヨークの地を踏んで興味津々、街を歩いて大はしゃぎするのだ。あの場面は重要だ。

クラシック音楽を好む私としては、つい演奏行為の要素において「楽譜」を最も重要視してしまう。だが、ニューヨークで大はしゃぎのシーンは、演奏行為にとって「会場」も非常に重要な要素だということを示唆する。それはよく言われるようなホールの響きなどだけではなく、「演奏する場所の風土」という意味でもある。演奏される楽曲のバックボーンにある風土と、演奏する土地や風土の関係性。その関係性自体が重要な要素なのだ。21世紀の極東で18~20世紀の西洋音楽を演奏している立場としては、そのことにもっと真摯に向き合うべきなのかもしれない (それがたとえアマチュアの自己満足だったとしても)。

 

『ソング・オブ・ラホール』における音楽とクラシック音楽は質が違うから、単純に比較はできない。そんなことはわかっている。

ただ、参考にできないわけではない。音楽においては、全く異質に見えるもの同士が融合できる可能性を秘めているということは、まさにこのセッションが証明するところなのだから。

 

 

 

*1:でも「純粋に音楽を楽しむ」ってなんだよ……気に入っていない言い回しなので、もっといい表現があったら差し替えたい

先生の追悼文

 

 

6歳から19年に渡って習い続けていたピアノの恩師が若くして亡くなった。つい先々月まで、19年間ほぼ欠かさず毎月レッスンに通っていた大好きな先生だった。訃報を知った際には全身の力が抜けてしまったが、未だに実感が湧かない気もする。いつも通り、メールで次回のレッスンの日程調整をしそうになってしまう。

 

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私はここまで一度でも、音大やプロ奏者を目指した教育を受けたことはない。自由に好きな曲を練習しただけだ。だから19年も通ったが、単なる技術力については、それに見合うほどはないと思う。指運をすぐ間違えるし、つっかえてばかりだ。

 

しかしそんな(細かい)ことは吹き飛ばしてしまうほど、先生は大胆で、とても強い方だった。

 

例えば難しいパッセージをできないで四苦八苦している。すると、「難しいパッセージは作曲家がわざわざ難しく書いたわけで、そこには感情や力がこもっている。だから速度を落として堂々と丁寧に弾けばいいのよ」と仰る。大胆な理論だ。

それから、レッスンではグランドピアノを使わせてくれたのだが、グランドピアノは巨大な楽器で、楽器全体を鳴らすのにはそれなりの技術がいる。ただ無茶に叩きつけてもいけないし、ピアニッシモであっても薄ぺらいタッチだと音色が空虚になってしまう。私が楽器全体を上手く鳴らせていないとき、先生は横にきて、お手本といいながら鍵盤に拳骨をお見舞いしていた。その度に、実に素晴らしい音色の fffの不協和音で部屋が満たされる。その後、私にも拳骨で鳴らす練習をさせる。なんとも力強いことだ。

 

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結果的に最後となってしまったレッスンの際、先生はある印象的なことを仰った。

「○○君(私の名前)ももう自分の為に演奏するレベルじゃないんだから、他人の為に演奏しなきゃダメなのよ」と。

……というのは別に、他人の為に滅私的に演奏しろなどということではなく、以下のような意味である。

例えば自分が没入して演奏しているときと、それを録音したものを再生してみたとき、そこから受ける印象は全く違う。また、特にソロ楽器の場合、演奏者である最中は「演奏している今の自分が心地よいように」つい弾いてしまうものなのだが、それは聴き手からすると実は単なるいびつな代物だったりする。

それは技術だけでは解決しない(正確すぎる演奏がいびつに聴こえることもある)。そこには、「他人の耳」が必要である。

弾いているときには「他人の耳」を以て自らの演奏を聴き、それを基に音楽を作っていかなければならない。言い換えれば、自分自身だけでなく、「他人の耳」の為に演奏しなければならない。

先生は大体そういうことを仰った。

私はなるほど~、と言った。

 

 

先生は亡くなった。私にとって最大の「他人の耳」が突然失われてしまった。

私は今後もピアノを演奏したい。単なる拙いアマチュア演奏家である以上、私はほとんどの場合、だれかの為というよりも私自身の為に演奏することになるだろう。

しかし鍵盤に向き合うとき、例え実際にはそこに誰もいなかったとしても、上達の為には私の中に他人の耳を持たないといけない。そこで、先生には今後も心の中に登場してもらいたいと思う。

 

そんな風に考えながらベートーヴェンの「熱情ソナタ」を弾いてみたが、悲しくなってしまってあまり上手くいかなかった。なぜ上手くいかないのか? くよくよと悲しんでいないで、もっと深く、楽器全体を鳴らさなくてはいけなかったのだ。