色とりどりの棒

わかりたい

先生の追悼文

 

 

6歳から19年に渡って習い続けていたピアノの恩師が若くして亡くなった。つい先々月まで、19年間ほぼ欠かさず毎月レッスンに通っていた大好きな先生だった。訃報を知った際には全身の力が抜けてしまったが、未だに実感が湧かない気もする。いつも通り、メールで次回のレッスンの日程調整をしそうになってしまう。

 

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私はここまで一度でも、音大やプロ奏者を目指した教育を受けたことはない。自由に好きな曲を練習しただけだ。だから19年も通ったが、単なる技術力については、それに見合うほどはないと思う。指運をすぐ間違えるし、つっかえてばかりだ。

 

しかしそんな(細かい)ことは吹き飛ばしてしまうほど、先生は大胆で、とても強い方だった。

 

例えば難しいパッセージをできないで四苦八苦している。すると、「難しいパッセージは作曲家がわざわざ難しく書いたわけで、そこには感情や力がこもっている。だから速度を落として堂々と丁寧に弾けばいいのよ」と仰る。大胆な理論だ。

それから、レッスンではグランドピアノを使わせてくれたのだが、グランドピアノは巨大な楽器で、楽器全体を鳴らすのにはそれなりの技術がいる。ただ無茶に叩きつけてもいけないし、ピアニッシモであっても薄ぺらいタッチだと音色が空虚になってしまう。私が楽器全体を上手く鳴らせていないとき、先生は横にきて、お手本といいながら鍵盤に拳骨をお見舞いしていた。その度に、実に素晴らしい音色の fffの不協和音で部屋が満たされる。その後、私にも拳骨で鳴らす練習をさせる。なんとも力強いことだ。

 

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結果的に最後となってしまったレッスンの際、先生はある印象的なことを仰った。

「○○君(私の名前)ももう自分の為に演奏するレベルじゃないんだから、他人の為に演奏しなきゃダメなのよ」と。

……というのは別に、他人の為に滅私的に演奏しろなどということではなく、以下のような意味である。

例えば自分が没入して演奏しているときと、それを録音したものを再生してみたとき、そこから受ける印象は全く違う。また、特にソロ楽器の場合、演奏者である最中は「演奏している今の自分が心地よいように」つい弾いてしまうものなのだが、それは聴き手からすると実は単なるいびつな代物だったりする。

それは技術だけでは解決しない(正確すぎる演奏がいびつに聴こえることもある)。そこには、「他人の耳」が必要である。

弾いているときには「他人の耳」を以て自らの演奏を聴き、それを基に音楽を作っていかなければならない。言い換えれば、自分自身だけでなく、「他人の耳」の為に演奏しなければならない。

先生は大体そういうことを仰った。

私はなるほど~、と言った。

 

 

先生は亡くなった。私にとって最大の「他人の耳」が突然失われてしまった。

私は今後もピアノを演奏したい。単なる拙いアマチュア演奏家である以上、私はほとんどの場合、だれかの為というよりも私自身の為に演奏することになるだろう。

しかし鍵盤に向き合うとき、例え実際にはそこに誰もいなかったとしても、上達の為には私の中に他人の耳を持たないといけない。そこで、先生には今後も心の中に登場してもらいたいと思う。

 

そんな風に考えながらベートーヴェンの「熱情ソナタ」を弾いてみたが、悲しくなってしまってあまり上手くいかなかった。なぜ上手くいかないのか? くよくよと悲しんでいないで、もっと深く、楽器全体を鳴らさなくてはいけなかったのだ。