色とりどりの棒

わかりたい

ソング・オブ・ラホール

 

私は映画には疎いが、『ソング・オブ・ラホール』はとにかく観てよかった作品だったので紹介したい。

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政治的にイスラム化が進行したパキスタンで、かつては一大娯楽の一つであった伝統音楽は廃れつつあった。伝統音楽の楽団の起死回生の一手として、ジャズのスタンダードナンバーをアレンジし演奏したものを動画に公開、それがバズって世界に拡散、大物トランぺッターであるウィントン・マルサリスの目に止まり、ついにジャズの本場ニューヨーク共演をするまで。その一連を追ったドキュメンタリー映画である。

 

そして、共演の様子は今もyoutubeに公開されている。

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私はこの映像がとにかく大好きなのだが、何がそんなによいと思うかというと、まずラホールの楽団もニューヨークの楽団も、端的に演奏が大変高レベルなことでさる。

ニューヨークでパキスタンの楽団がマルサリスと共演する ― そのイベントには、オリエンタリズムが含まれた興味、言い換えれば、異質な他者に対する好奇が関わらざるを得ないだろう。観客が会場に足を運んだ理由は、必ずしも純粋に音楽を楽しむ為だけではなく、多かれ少なかれパキスタン人がジャズを演奏する面白さに牽引されたからに違いない。*1

しかし映像を見たとき、まず私は、オリエンタリズムなどはここでは取るに足らないものだと感じた。シタールでもトランペットでもタブラボンゴでもサックスでも (つまり国境など関係なく) 舞台音楽に共通して必要なのは、音楽への已むに已まれぬ情熱や、冷徹な技術力だということを思う。情熱だけでは合奏は成立しないし、技術力だけではそもそもこんな公演は実現しなかっただろう。

 

一方で、この映画を見ると、ラホール/ニューヨークの風土、文化、政治、そういった背景がなければ、逆にこのような演奏を引き出すのはおおよそ難しいと感じた。このセッションの魅力には、その演奏のレベルの高さだけでなく、確かにそういった異文化の交わりが一役も二役も買っている。それを挙げなければ嘘になるだろう。

特に映画内には印象的なシーンがある。ラホールの演奏家たちが、紆余曲折の末に遂にニューヨークの地を踏んで興味津々、街を歩いて大はしゃぎするのだ。あの場面は重要だ。

クラシック音楽を好む私としては、つい演奏行為の要素において「楽譜」を最も重要視してしまう。だが、ニューヨークで大はしゃぎのシーンは、演奏行為にとって「会場」も非常に重要な要素だということを示唆する。それはよく言われるようなホールの響きなどだけではなく、「演奏する場所の風土」という意味でもある。演奏される楽曲のバックボーンにある風土と、演奏する土地や風土の関係性。その関係性自体が重要な要素なのだ。21世紀の極東で18~20世紀の西洋音楽を演奏している立場としては、そのことにもっと真摯に向き合うべきなのかもしれない (それがたとえアマチュアの自己満足だったとしても)。

 

『ソング・オブ・ラホール』における音楽とクラシック音楽は質が違うから、単純に比較はできない。そんなことはわかっている。

ただ、参考にできないわけではない。音楽においては、全く異質に見えるもの同士が融合できる可能性を秘めているということは、まさにこのセッションが証明するところなのだから。

 

 

 

*1:でも「純粋に音楽を楽しむ」ってなんだよ……気に入っていない言い回しなので、もっといい表現があったら差し替えたい