色とりどりの棒

わかりたい

反例てんこもり哲学の徒然考

『フィクションの哲学』(清塚邦彦, 2009 勁草書房) を読んだ。

けっこう面白い。フィクションを語るとはどういうことなのかについてはプラトンの時代から「ミメーシス」という概念で語られている問題である。以前アリストテレスの『詩学』を授業で読んだのにさっぱり価値がわからず終わったのとかが少しだけすっきりしたのもよかった。

フィクションの哲学といっても、フィクションの統語論、意味論、言語行為論、非言語的作品について、そしてフィクションの中の真理の問題、といろいろジャンルがあるようだ。フィクションの哲学は生活に身近な物語という形式について扱っていることや、例えば「源氏物語の中でエジプトのピラミッドに関する命題の真理値は決定できるか」といったセンセーショナルな問題提起ができることから、とっつきとして面白い。そういえばこのブログでもゴジラのリアリティーがどうのって書いたけど、あれもフィクションの哲学の一部であると言えるだろう。そんなこんなで僕もいつのまにかどっぷりハマってしまった。だからこの本も読んでて面白かった。

でも、特に「フィクションの中の真理 truth in a fiction」の章を読んでる時に思ったことなんだけど、これってやってて意味ある哲学的議論なの???と疑問を抱いてしまった。このジャンルは、先ほどの源氏物語ピラミッド問題(補充の問題)や、物語内での矛盾の問題、そして例えば「ハリーポッターの髪の毛は偶数本である」といった非言及命題についての真理値の問題などを抱える。主要な論者には可能世界職人のデイヴィッド=ルイス、信念説のカリー、そして「ごっこ遊びの理論」を唱えるウォルトンなどがいる(らしい)。

いちいち話の道筋や歴史を書き連ねているわけにもいかないのでずばり感想を言うと、端的に議論が細かすぎてちょっと微妙だ。というのも、物語というのは星の数ほどあって内容もものすごく多種多様。どんなによさげな理論を構築しても、結局どこかに反例が見つかってしまう。さらに困ったことには、物語は新しく生産されている。つまり、わざと反例になるような形式を持ったものを意図的に作ることさえ可能なのだ。(本の中でも、いやまたよくいろんな事例をみつけてくるもんだなぁと逆に感心してしまった)

うーん、これって意味あるのだろうか。哲学というのは理想的には、ある理論や体系によってそれが扱う事柄全体を網羅することを目標にしているというのが恐らく一般見解だし、僕もまあそう思う。それに対してこのジャンルでは、個別に生成されるフィクション作品への個別的説明付けという要素が強すぎる。もし哲学はアドホックで構わないという主張があるなら、それは哲学不要論のことじゃないのかしら?だとしたら、このジャンルって存在意義どうなんだろう…………

想定される反論としては、その他のジャンルでも実は似たような状況にあるというのが浮かぶ。例えば科学哲学だって、科学がクオリアを表現するような今では想像のつかない言語を使用するようになったら、今の哲学の理論体系では追いつかないところもでてくるかも知れない。フィクションの哲学との違いはその「反例生産」の頻度でしかない。なら棒氏は科学哲学全般を否定するのか、いやそれは望むところではないだろう、と。

いや、そうじゃない。フィクションの場合は、その哲学に対する反例を「意図的に」生産できる。そして、科学理論と違って作品は作品であること自体に価値があるので、意図的な反例としての作品ももちろん、また分析されるべき立派な作品である。そういうわけで哲学者側もまた新しい形式に対応する理論を作って……、ってこれじゃただのいたちごっこの茶番じゃね?以上、再反論でした。

ここまで書いてきて、ごちゃまぜにしていたことがある。それは、一体僕が問題にしているのは「フィクションの哲学」全体なのか「フィクションの中の真理」なのかということだ。

これについては、一応後者だということにしておく。その他の分析法もなんだかいかがわしいところはある気がするんだけど、フィクションの哲学全体がオワコンだと決めつけるのはちょっと横暴すぎる。なぜなら、フィクションのあり方には非言語的な、視覚的、身体行為的なものだってあるし、そういうものに対してはまた(「フィクショナルであるとはどういうことか」みたいな)メタ的議論が必要だからだ。それにそっちの方は正直本を読んでていまいち理解できた気がしなくて、否定しようにもできないということもあります。

とにかくフィクションの哲学は面白い。しかしあまりにも事例ごとの分析や反例による批判がてんこもりで少しシラケる。

でも楽観的帰納法じゃないけど、もしかしたら突拍子もない新しい理論が出てきて、論駁しようのないフィクションの中の真理の説明ができるかも知れないよね。そうしたらおとなしく土下座して、こっそりこの記事は消しちゃう所存であります。