色とりどりの棒

わかりたい

メリークリスマス

千葉県市原市の山あいにある某無人駅に、なんの縁あってか今年だけで二回も訪問する機会があり、まずは五月そして次は十二月に降り立ったのだけれど、一度目は春麗らかでとても風情があったのが、二度目では大量の電飾でこれでもかというほど駅は飾りつけられ、夕闇の穏やかな景色の中で圧倒的な存在感を伴って、大小さまざまかつ色とりどりの電球が点滅している。周辺はことごとくただの山あいの集落と田畑という感じで人家の明かりは数軒見あたるのみだし、小さな駅舎もやって来る汽動車もかなり年季が入っている上に、電飾の方はなにやら偽物くさい舞浜のネズミ氏等が中途半端に顔を光らせており、おまけに小さなちゃちい電子音で「清しこの夜」等が延々と流れ続けているのだった。

はっきりいって絶望的なセンスのなさなのだけど、これで興醒めしてしまったということは全くない。なんだか哀愁というか悲哀というかが濃密で、むしろなんとも言い表しがたいない気分になってしまった。この徹底的なゴテゴテから醸し出されるどこか素朴な悲哀は、狙って再現できるものでもないだろうし、貴重だ。それになんだか安部公房最後の長編『カンガルー・ノート』の死の場面を連想させるような雰囲気で、僕はこの小説のこの場面が全ての中で一番好きなので、内心ではむしろ感動しきりでした。

とはいえどういってみてもミスマッチすぎる電飾なのに、案外皆さんからの評価は高いのである。地元民と思われるおばさん等が、あら綺麗だわね、としきりに携帯のカメラ等に収めたりしていた(!!)。うーん、小さな鉄道会社の社員がクリスマスだと張り切って、少ない予算をやりくりして電飾を買ってきて自分達で飾ったのだろうか、それでいてお客さんにはけっこう喜ばれているみたいだということがわかった。そう考えるとなんかいいな、あたたかい話っぽい。そんなこんなも含めて、なかなか善い景色だったのでした。決して綺麗ではなかったけど。それに電気もかなり無駄じゃんな。節電しやがれ。

そういうどぎついのを観て以来、「渋谷や新宿などでイルミネーションを目にするとなぜか自然に笑いが込み上げてくる病」に罹ってしまった。なんか一つひとつの電球が粒としてしか見えなくなってきて、それが集合してできる全体像としての装飾が見えてこない。それで絶妙におもしろくなっちゃったんである。困った。

クリスマスですね。去年はイブに赤ワインをらっぱ飲みして二十五日は宿酔で学校に行き、そのまま食欲が湧かずに昼ごはんは学食でオクラのおひたしと味噌汁だけというありさまだった。楽しかった。さて今年はどうなるかな、なんでもいいけど遊びたい。でもやはり卒論と格闘なのかな。やっと半分まで書けたけど、オリジナリティーはここからなのでまだまだ時間がかかりそうだ。参った。

卒論は書くのに疲れると、よくwordの文章内検索機能を使って遊ぶ。ここまでの16000文字くらいの中で、「ギャップ」が99回、「同一」は66回、すでに書かれているらしい。ちなみに助動詞「である」は134回だそうな。つまり全体の約6%はこの3つの単語でできている。なんかわろた。

ところで今書いていて思いついたのだけど、「ア・プリオリとモッツァレラチーズのパスタ バジルソース添え」って美味しそうじゃないですか。新鮮な味がしそうだ。ア・ポステリオリはどうしよう、ムール貝と一緒にパエリアにしたいかな。コクがありそうだ。そんで赤ワインをらっぱ飲みしたい。ばーかばーか

いきなり暴言を吐いておしまい。

 

 

渋滞と妄想の親和性について

落ち着きを失っているので、またもや気晴らし。

以前浅草に車で行く用事ができたとき、用賀ランプから首都高3号線に乗ったのだけど、ゲートを通過した途端に「池尻で事故 渋谷まで60分」とかなんとか書いてある。

絶望した。

僕は渋滞が大大大嫌いで、環境にも財布にも精神にもとんでもない悪影響だと思っている。ましてわざわざ高速料金を払ってこのありさま、やるせなさしかない。本も読めないし酒も呑めない、それどころかトイレが近くなるのでコーヒーも迂闊に飲めない。話し相手もいない。クソかよ。

半ベソで三軒茶屋をやっと通過したとき、村上春樹の『1Q84』を思い出した。そういえばあの小説の冒頭で主人公のひとりが「Q」の世界に迷い込んでいくきっかけは、3号線三軒茶屋での絶望的な大渋滞の中で、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴いていたということにあるんだった。今ここで運転しながら「シンフォニエッタ」を聴いたら、Qの世界に行けるかなとか妄想して(絶対に行きたくないけど)、でもそのCDは持っていないので適当になんか置いてあったやつを流してみた。エモい。

結局まあブラームスのピアノトリオではQの世界には行けなくて、こうして呑気にブログとか書いているわけだけど、この時ばかりは自分が準ハルキスト※でよかったなと思った。普通に考えたらストレスでしかない3号線の渋滞なんかで、けっこうわくわくできたりする。(※あくまでも「準」であって、生粋のハルキストと話したら銃殺されそうになったこともある。奴らは思いの外凶暴だった。)

またある時は高校時代の友達と紅葉の箱根に遊びに行ったのだけど、その時は行きも帰りも最悪で、たった2時間温泉に入っただけなのに実に往復7時間運転するということになってしまった。通常なら往復2時間なのに。しかもみんな後部座席で麻雀してばっかりで誰も構ってくれないし、ちょっと酷いよなぁ。

隣を悠々と走る箱根登山鉄道が恨めしい。

帰りは夜も更けてきた頃に西湘バイパスの大磯付近でこの世の終わりみたいな渋滞に捕まったのだけど、その時は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』を思い出した。ティンパニが鳴って真っ赤な相模湾に巨大な使徒が出現し、西湘バイパスを逃げまどう車は大渋滞、みたいなカットがあった気がする。運が悪いと容赦なく使徒だかヱヴァだか公権力だかにぶっ潰されてそこに十字架が立っちゃったりする。僕は力なき被害者のひとり。エモい。

結局まあ使徒は現れなくて、こうして呑気にブログとか書いているわけだけど、この時ばかりはちゃんとヱヴァ観ておいてよかったなと思った。正直ちょっと楽しくなってしまった。いや別に楽しくなってはいないか。

やっぱり楽しいわけではなかったです。

ひとりで運転していて渋滞の時に求められるのは、妄想をするスキルだ。というか何もソースがない状態で想像力を膨らませるのって真面目に重要なことだと思うのだけど、スマホを持っているとなかなかそういう機会はないんだよな。渋滞の時間はスマホに逃げることさえも許されない珍しい時間だ。僕は子どもの時から半分(最近は1/3くらい)想像の世界の中にいて激しく独り言が多いような性格なので、案外渋滞のような究極の暇は上手にこなせるのか……。はあ、だからなんだ。

渋滞名所の「東名綾瀬バス停付近」にも「中央道小仏トンネル付近」にも、それぞれなんか物語を作って暇つぶしにしよう。いつか役にたつかもしれない。とはいえやっぱり渋滞は最悪だけど。

というかこの文章、全体的にきもいな。

あと卒論をやれ。

 

 

思考実験と組み相撲はとらない

(これは10/30の投稿とセットにするつもりで書いたのだけど、やっぱり微妙なのでは?と思いだしてお蔵入りしていたやつです。でも卒論でも発表でもなんでもないので、なんかもったいないしもう微妙でも構わないやと今さら開き直った。)

心の哲学で卒論を書きたいという以前からの決意に全く変わりはないのだけど、やっぱり思考実験を使って意識を形而上学的に論じる方針については相当無理あるな???という思いが日に日に増してゆく。

これまでもそういう感覚はあったが、それでもデネットみたいな過激派をみていると「とはいえ思考実験をすること自体は議論の幅を拡げるのに役に立ってるんだし」みたいな思いもあった。その辺の折り合い(?)がつけられていなくて、いろいろ中途半端になっていた。でもむしろ今はデネットの直観ポンプ云々という批判の受容より、思考実験で得られる形而上学的な結論も結局「認識」が一枚噛んでるわけで、そんな直観だけで意識の存在論は語れないでしょと単純に思う。卒論で説明ギャップの話を持ち出そうとしたのも、それが認識論的な話だけに特化しているからというのが理由として大きい。なんというか、論法が謙虚だ。(当のレヴァインも我々の形而上学的直観は脆弱だということを重視しているみたい)

とにかく存在論的二元論を相手に思考実験を使って戦うのは、そもそも相手の土俵に乗っちゃっていてなんか気分がよくない。某ギリシア人が「たとえ哲学的な問いを解除するにも哲学が必要だから哲学はすごい」的なことを言っていた気がする(忘れた)けど、その引きずりこみ論法ずるくないですか。それと同じで、思考実験の結論を正面から論駁するにはやっぱり思考実験をしろということになりがちなので、引きずりこまれる前に始めからその土俵を降りておきたいんです。土俵に上がってまともに組み相撲をとれば、たぶん歯切れ悪く負けちゃうだろう。

じゃあどう論じれば意識について納得いくかたちでわかりを得られるのか考えたところ、心や意識の概念が形成された過程と科学的同一視、という観点から切り込むのがいいのではという結論に至りつつある。卒論では、心の概念を含む素朴概念はそもそも経験と心的過程を経て形成される上に、言語文化的なバイアスやその他いろんな要素が絡んでいて、その素朴概念に科学的な説明的同一視を与えても、成立過程上の差異から齟齬が生じている「ように見え」、それがギャップの正体である、みたいなことがいいたいんだけど、果たして大丈夫なのでしょうか………………まあ大丈夫じゃなかったら新しいのを考えるまでだ、強気はだいじ。

まあそういうわけで心の哲学ではありながら、「意識とは」という直接的な悩みはやめる。だって意識なんて今までで一個(自分のやつ)しか観察したことないから、直接論じなさいといわれても情報が少なすぎてお手上げである。で、その代わりに「説明とは 概念とは 推論とは」という悩みに移行することにした。悩むポイントをずらすことで思考実験の軛から逃れて、いわば議論の自然化みたいなことが少しでもできればいい。

とかブログでいってる場合じゃなくて、本文を書け、本文を。言い訳をすればこの文章は気晴らしに書いただけで、これを書かなかったとしてもどうせ意味不明くそツイートを量産していただけだろうということは明白なので、どっちもどっちなんだ。

あと思考実験については、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』(岡本裕一朗,2013 筑摩書房)という文庫本を読んだことがある。領域が多種多様で読み物としてはけっこう面白い。こんな文を書いたあとでも受け入れられる思考実験もあれば、そうでないのもある。とにかく、いろいろよく思いつくよなぁと感服した。

 

 

旋律地獄

必要に迫られて最近は哲学の勉強もまあそこそこやっているつもりだけど、平行してこっそり音楽理論の勉強もやっている。そうしたら基礎は知っていたつもりだったのにけっこう何もわかっていないことが発覚した。

その中でも今一番興味があるのはバッハのフーガ、特に平均律クラヴィーア曲集のフーガで、全然うまく弾けないくせにヘンレ版の楽譜(のコピー)にはアナリーゼもどきの書き込みをして遊ぶ。以前ちょうどオーケストラの演奏会で配るパンフレットにバッハ=フーガの解説を書く機会があったので、その時に張りきっていろいろ関連書も読んだ。読んでて楽しかったのはフランスの初心者向け解説書『ライプツィヒへの旅―バッハ=フーガの探究』(ミッシェル=モラール, 2013 春秋社)というやつ。内容は先生と生徒による対話形式で、僕が「なるほど!」とわかりを得たタイミングで登場人物の生徒も「なるほど!」というセリフとともにわかりを得たりしているので読んでいてなんか面白い、そんな本です。

それで個人的に思うのは、バッハのフーガには、よく言われる「美しい」とか「敬虔だ」という形容よりも、「とてつもない」とか「凄まじい」という方が合っているということ。実際、声部同士が決定的に対立してしかも互いに全く妥協せず、結果的に和声としては大変な不協和音になっているという部分もたくさんある。僕が平均律の中で一番好きな第一巻のロ短調(BWV 869)などは、誰だかが「不協和音の絨毯」とか評していたほどだ。というかなんだよその表現かっこよすぎかよ。

いやでも本当にその曲は「不協和音の絨毯」が敷き詰められているし、特にオルガン曲のフーガとかはそういう意味で正直聴いていてキツいものさえある。多声部の旋律が同じ音量(しかも大音量)で容赦なく脳内にぶちこまれる。旋律を追うことができず、脳はパンク寸前。理解できない、うるさい、キツい。旋律地獄なのだ。でも楽譜を見ながら聴くと次第に頭が整理されて、それぞれの旋律が分析された状態で認識できてくる。そうなればなるほど感動!なんだこの曲凄すぎる!と思えてくる。僕はオルガン曲のフーガの鑑賞ってそこから始まると思う。旋律地獄の先に、それぞれの顔を持って声部が立ち表れてくる、そこからだ。というわけでこれはやっぱり「美しいバッハ」なんかじゃなくて、「凄まじいバッハ」だと思うのです。ウオオオオすげえ。ゴゴゴゴゴ。

(有名なBWV 542とかは「凄まじいバッハ」の代表格という感じがするので聴いてみてください)

ところで完全な独学なのだけど僕も趣味で作曲をしている。中学生で初めて作ったとき以来、先生は主にベートーヴェンソナタだった。けど最近は前衛音楽っぽい多調的無調性で、バッハ以来のフーガ形式をやったらスーパー面白いのでは??と思って挑戦してみている。かれこれ2曲出来上がったんだけど、うーんどうなんだろうなぁ。少なくとも和声の綺麗さとは無縁の出来だ。汚ねぇ。あとこれは昔からだが、でかい頭ばかりが先行して肝心の指が追いつかないという悲しい事態に陥っているので、自分で作った曲なのに満足に弾けない。つらみ。まあとにかく今度の発表会でちまちま演奏してみたいと思う。

あとはこれは議論が星の数ほどありそうだけど、たくさん楽理を勉強して、楽譜と格闘しながらじゃないと芸術の悦びどころか苦痛にさえなるような音楽(=わかりミュージック)にはどういう価値があるのだろうか。まあどちらかというとこれは難解な現代音楽に必要とされる問いでしょうね。音楽なんてぱっと聴いて直観的に価値を判断され得るようなものだけあればいいじゃん、という人は結構おおい。実は自分の身近にも恐らくそういう意見であろう人がいて、音を聴かないで楽譜ばかり眺めていた僕に「音楽は聴くものであって視るものでも考えるものでもないよ」とか言ってきた。難しい議論はともかく、まあ好きにさせてくれよ……と思うよまったく。和声理論や対位法でご飯を食べている人たちがいるという事実が示すように、ともかくそういう変な人というのは一定数いるのです。そっとしておいてあげましょう。

以上です。「メンデルスゾーンには泡盛」というのがこのブログの一貫した主張なのですがバッハにはなんのお酒がいいかな。ショットのウィスキーかな、「白州」というより「山崎」かな。

ちなみにバッハ自身はビールが必需品だったようで、ヴァイマル時代の出納帳には宿泊費や食費とは別に「ビール費」が別会計で計上されているとのことだ。ビール費、ほしい。

 

 

わかり砂漠©が増えてゆく話

卒論がやばいという話。10月頭におおまかなスケジュールをたててみたものの、既に追いついていない。冷静に、まずいかもしれない。

今は卒論のテーマでもある、「説明ギャップ」の進化形(?)である「概念ギャップ」の批判論文を読み進めているという段階だ。僕もこの立場を擁護していきたいと思っていて、最良の説明、同一性、相関テーゼ、といった言葉をもっとずっと勉強しなくてはいけなくなっている。

いや実は、一時は早くもこれでもう書ける!という段階にきたとさえ思われた。そんなふうに油断してたのは3年秋のころだったかな。まだ今よりももっと無知で、そのことが逆に向かうところ敵なしくらいに思う原因になっていた。思えば馬鹿みたいな話だ。

でもいろんなものを読めば読むほど、結局その内容に文句をつけたくなったり、あるいはその根拠になる議論を知らないといけなくなったり、何かが解決するどころかどんどん課題が増えてゆく。今まで発見できていなかった土地に、文献を読むことで広大なわかり砂漠が広がっていることを発見してゆくというイメージ(「わかり砂漠」はテクニカルタームだよ)。とにかく向かうところ敵だらけじゃないかと、後れ馳せながら気づいてしまった。参ったなぁ。

そしてまた卒論の中でも、やはり自分の立場、それに対する仮想反論、さらにそれに対する再反論、というように重層化してゆかないと説得力のあるものは書けないはず(せっかくだから適当なもので済ませたくはないし)。でもこの自分で自分に反論するという作業は難しくて、なぜなら自分の主張を読んだ人がある程度「思いつきそうな」ものでないと仮想反論としては効果が薄いだろうからだ。つまり、仮想反論はある程度「一般的な」ものでないといけない。こういう風に、それまでの議論の流れなどを鑑みつつ、突っ込まれがちなポイントを自分で見つけだして反論を書くというのはけっこう至難の業な気がするんだけど、みなさんはどうなんでしょうか……??参ったなぁ。

ところで夏休みに、黒島という沖縄県八重山諸島の小さな島で、

「本読めば 知りたいことが よく知れる」

という小学生の川柳(?)を見つけて大爆笑したことがあった。しかしこの時期になって、実態は俳句と真逆だということに気づく。本で知りたいことがよく知れるのは確かだが、それ以上のペースで知るべきことが山積してゆくという感覚がある。僕はあえて、「本読めば わかり砂漠が 増えてゆく」とでも詠みたいと思いますね。いや、あほなこといってる場合じゃない。まじで何もわからん。ついでにいえば今練習しているドヴォルザーク9番のスケルツォのリズムとか、そういうのもわからん。やれやれ、結局何が言いたいのかさえわからなくなってきてしまった。参ったなぁ。

仕方ないから泡盛でも飲みます。個人的に泡盛にはメンデルスゾーンという感じがする。

反例てんこもり哲学の徒然考

『フィクションの哲学』(清塚邦彦, 2009 勁草書房) を読んだ。

けっこう面白い。フィクションを語るとはどういうことなのかについてはプラトンの時代から「ミメーシス」という概念で語られている問題である。以前アリストテレスの『詩学』を授業で読んだのにさっぱり価値がわからず終わったのとかが少しだけすっきりしたのもよかった。

フィクションの哲学といっても、フィクションの統語論、意味論、言語行為論、非言語的作品について、そしてフィクションの中の真理の問題、といろいろジャンルがあるようだ。フィクションの哲学は生活に身近な物語という形式について扱っていることや、例えば「源氏物語の中でエジプトのピラミッドに関する命題の真理値は決定できるか」といったセンセーショナルな問題提起ができることから、とっつきとして面白い。そういえばこのブログでもゴジラのリアリティーがどうのって書いたけど、あれもフィクションの哲学の一部であると言えるだろう。そんなこんなで僕もいつのまにかどっぷりハマってしまった。だからこの本も読んでて面白かった。

でも、特に「フィクションの中の真理 truth in a fiction」の章を読んでる時に思ったことなんだけど、これってやってて意味ある哲学的議論なの???と疑問を抱いてしまった。このジャンルは、先ほどの源氏物語ピラミッド問題(補充の問題)や、物語内での矛盾の問題、そして例えば「ハリーポッターの髪の毛は偶数本である」といった非言及命題についての真理値の問題などを抱える。主要な論者には可能世界職人のデイヴィッド=ルイス、信念説のカリー、そして「ごっこ遊びの理論」を唱えるウォルトンなどがいる(らしい)。

いちいち話の道筋や歴史を書き連ねているわけにもいかないのでずばり感想を言うと、端的に議論が細かすぎてちょっと微妙だ。というのも、物語というのは星の数ほどあって内容もものすごく多種多様。どんなによさげな理論を構築しても、結局どこかに反例が見つかってしまう。さらに困ったことには、物語は新しく生産されている。つまり、わざと反例になるような形式を持ったものを意図的に作ることさえ可能なのだ。(本の中でも、いやまたよくいろんな事例をみつけてくるもんだなぁと逆に感心してしまった)

うーん、これって意味あるのだろうか。哲学というのは理想的には、ある理論や体系によってそれが扱う事柄全体を網羅することを目標にしているというのが恐らく一般見解だし、僕もまあそう思う。それに対してこのジャンルでは、個別に生成されるフィクション作品への個別的説明付けという要素が強すぎる。もし哲学はアドホックで構わないという主張があるなら、それは哲学不要論のことじゃないのかしら?だとしたら、このジャンルって存在意義どうなんだろう…………

想定される反論としては、その他のジャンルでも実は似たような状況にあるというのが浮かぶ。例えば科学哲学だって、科学がクオリアを表現するような今では想像のつかない言語を使用するようになったら、今の哲学の理論体系では追いつかないところもでてくるかも知れない。フィクションの哲学との違いはその「反例生産」の頻度でしかない。なら棒氏は科学哲学全般を否定するのか、いやそれは望むところではないだろう、と。

いや、そうじゃない。フィクションの場合は、その哲学に対する反例を「意図的に」生産できる。そして、科学理論と違って作品は作品であること自体に価値があるので、意図的な反例としての作品ももちろん、また分析されるべき立派な作品である。そういうわけで哲学者側もまた新しい形式に対応する理論を作って……、ってこれじゃただのいたちごっこの茶番じゃね?以上、再反論でした。

ここまで書いてきて、ごちゃまぜにしていたことがある。それは、一体僕が問題にしているのは「フィクションの哲学」全体なのか「フィクションの中の真理」なのかということだ。

これについては、一応後者だということにしておく。その他の分析法もなんだかいかがわしいところはある気がするんだけど、フィクションの哲学全体がオワコンだと決めつけるのはちょっと横暴すぎる。なぜなら、フィクションのあり方には非言語的な、視覚的、身体行為的なものだってあるし、そういうものに対してはまた(「フィクショナルであるとはどういうことか」みたいな)メタ的議論が必要だからだ。それにそっちの方は正直本を読んでていまいち理解できた気がしなくて、否定しようにもできないということもあります。

とにかくフィクションの哲学は面白い。しかしあまりにも事例ごとの分析や反例による批判がてんこもりで少しシラケる。

でも楽観的帰納法じゃないけど、もしかしたら突拍子もない新しい理論が出てきて、論駁しようのないフィクションの中の真理の説明ができるかも知れないよね。そうしたらおとなしく土下座して、こっそりこの記事は消しちゃう所存であります。

途中下車とかのよさについて

どうしても旅に出たい、しかしお金が決定的に、ない ―――こういう憐れな学生の強い味方が「青春18きっぷ」だ。

日本全国の普通列車に乗り放題で、5枚刷り11850円。首都圏を始発で出発すれば、たった2370円で北は青森県、西は山口県(裏技を使えば九州)まで到達できる。

こんないい話があるかよ!というわけで、学生の間にかなり18きっぷでの鈍行列車旅をやってきた。

とはいえ18きっぷ旅は、移動時間そのものや途中下車での街歩きを楽しむことができなければ、死ぬほど退屈だしかなり苦痛だと思う。ところがこのような旅の類型に慣れてくると、こういった目的地に至るまでのさまざまな「過程」が愛しくなってくるものだ。

3月、始発で上野駅を発って北海道に向かうと、1時間北上する毎に景色が冬に戻ってゆくのがわかる。乗り継ぎの待ち時間には小さな街を歩く。仙台では牛タン弁当を買う。岩手山を眺めれば天気は猛吹雪だ。北海道に渡ると川は凍りつき、車窓の水滴さえ氷の結晶になっていた。氷点下20度の音威子府という村でなぜか放り出されたりもした。あれはまじで寒かった。そしてとうとう日本最北端の稚内に丸2日かけて到達する。すごい達成感だ。

しかしいま、世の中の移動は「どこでもドア」にどんどん近づいている。密閉空間で均質な空を飛ぶ飛行機も、僕にとってはどこでもドアとさほど変わらない。旅のどこでもドア化は、予めガイドブックなどで得た情報を、実際目的地に直行し消費することで満足を得るという類型を強化するだろう。あるいは、人間同士の触れあいさえもがボランティアツアーなどという形で盛り込まれ、消費される。ここで旅は極度に「インスタント」な存在になる。便利で安全だし別に一概に悪いことと言いたいわけじゃないけど、僕は個人的にそれじゃ満足できないなと思ってしまう。

一方、この過程を大切にする旅 (それどころか、目的自体がはっきりしない旅) のあり方というのは、江戸時代においてしばしば爆発的に流行したお伊勢参りの頃から、その源流はあったようだ。

伊勢参り 大神宮へも ちょっと寄り」

という当時の川柳がある。伊勢参りという名目で旅をするものの、肝心の伊勢神宮には少し寄っただけ、ということだ。参詣用の手形で各地の関所を通過するはいいが、実際は道中の名所を見物したり好色が宿場の遊廓で金を使い果たして帰れなくなったりという有り様、なんてこともあったらしい。「予め設定された第一目的とは無関係な過程自体を楽しむ姿勢」という意味では、これらの話にも18きっぷ旅っぽさを感じる。楽しそう。

さて時代が下り、明治時代になると鉄道が登場する。夏目漱石は『草枕』の最後にこんなことを書いていた。

「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。[…]人は汽車に乗るという。余は積み込まれると言う。人は汽車で行くという。余は運搬されると言う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。」

うーん、漱石は余程汽車が嫌いそうだ。僕が飛行機などの「どこでもドア的存在」に対して感じていることを、明治人は当の鉄道に対して感じていたのかも知れない。峠の茶屋で食べる団子(※想像)や旅籠での人情話(※想像)といった古き良き旅の過程が鉄道によって失われた喪失感という意味では、わからないでもない。知らない街での途中下車や駅弁を買う楽しみという過程が飛行機によって失われつつある喪失感に似ているのではないか。

ここまで書いておいてあれだけど、僕は飛行機の旅も好きです。真冬にコートを着込んで羽田空港に向かって、クアラルンプールへと7時間半椅子に座って待つ。するとあら不思議、機体を降りれば突如熱帯のむし暑い空気に包まれる。あの瞬間の面食らった感じというか異国に単独ぶちこまれるわくわく感というか、そういうのも捨てがたい。まあ行けるものならどこへだって鉄道で行きたいけどね。

ほとんど引けなかったけど、講談社学術文庫に『旅の今昔物語』(沢寿次, 1981 講談社)という本がある。間違いなのでは?という部分もあるし少し古いが、通史的に古代から昭和後期までの旅の歴史が軽い語りで論じられていて、面白い。もし18きっぷ旅をすることがあれば、車内での暇つぶしにおすすめです。