色とりどりの棒

わかりたい

気になること抽象編

先日無事に卒論を提出して、どうやら卒業ということになりそうだ。お疲れ飲みやらお疲れ旅行やらをやって、ああ本当に終わったんだなと実感する。やったね。気合い入れて書いたら本文だけで30000字を越えてしまったのは、ちょっと膨らみすぎた。このブログにしてもそうだけど、短く簡潔にということには気をつけないといけない。

内容は説明ギャップをタイプB物理主義から無害化するというもので、これには2年生の時から興味があった。2年前期の心の哲学のレポートを読み返したら、骨格としては卒論とほとんど同じことが書いてあって、進化したのやらしていないのやらだ。でも案の定、卒論は書いているうちに気になることがいくらでもでてくるので、時間があれば勉強したいみっつのことまとめ、抽象編です。

①タイプBと知識論証との連関。

物理的一元論と概念的二元論の両立を認めるタイプB(特に現象概念戦略)にとって、メアリーの部屋など知識論証はいかにも中心的なトピックになりそう。なのに卒論ではほぼ触れていないので、そこら辺をもっと勉強したかった。僕は、物理的なものと「赤」概念の結びつきに必要な現象的概念をメアリーが持っていないことから、同一性に基づく消去的説明の、IBEによる正当化ということができないと思う。一方、タイプBなのでそのふたつの間にア・プリオリ概念分析はない云々。だから、メアリーは解放後きっと「どれが赤色か」がわからないのでは、という議論を展開したい。こんなに物理主義として弱い主張でもチャーマーズ陣営と対決できる論証はどんなものか。その辺はニダ-ニューメリンがおもしろそう。山口せんせいの旧事実-新様式戦略批判は退けられるか。あとジャクソンは自分でメアリーの部屋を提示しておきながらその後表象主義へと「背教」しているらしいので、そのあたりも。ドレツキとの結びつき。派生問題としての外科手術メアリー、ゾンビメアリー。

ア・プリオリ概念分析とクオリアの認識論。

ア・プリオリ概念分析がないということは本当に説明ギャップと置き換え可能なのか。これはかなり怪しいと思う。かといってチャーマーズが言っていたゾンビH2Oの消極的思考可能性の議論などは、それはそれで微妙。単に「もし君たちが正しくて、現象的意識以外の同一性にもア・プリオリ概念分析がないというならできるはずの思考実験は、想定するのが超むずい。むずいから駄目。むずいのは駄目。」でまとめているようにしか見えない。これでは反証になっていないのではと思う。結局なんで怪しいと思うのか自体にも結局わかり砂漠©が分布しており、もっといい説明がほしい。あとはある物事や分析がア・プリオリであるとは厳密にどういうことかについて。定義、論理、概念分析、表象内容など。

③プラグマティストになりたい。

卒論の内容は下手くそなりにプラグマティックな仕上がりになった気がする。あと、タイプA物理主義を取り上げて「説明ギャップを声高に主張するのは発展途上な神経科学の研究に対して有害だからやめるべきと彼らは考えていますよ」みたいなことを書いたときに、指導教官が「そういう種類の論証は純粋な哲学(説明ギャップとか)に対する批判になると思いますか」的なコメントをしてきた。ゑーー、てか純粋な哲学ってなんだよーー、とその時は結構もやもやしたのが印象に残っていて、そこからじゃあプラグマティストにでもなるかと思った。それと、IBEを使った論証をするにはプラグマティズムをしっかり知らないとやばそうだ。しかし、この思想とどこまで付き合うのかは問題。政治や文学に応用できると無条件に考えるのは危険そうだ。その辺の折り合いについて。ジェームズはイイ奴なのか。ローティって誰だ。ポストモダン文化左翼とは??哲学の死??南無阿弥陀仏??とは??

というわけで、卒業だというのに哲学がなかなかつまらなくなってくれない。もうおしまいなのに。でもまあ別に学校でしか学問をやってはいけないなんてルールはどこにもないわけで、幸い今のところ関連書籍は4000円くらい課金すればネットでポチッと手に入る。これからもゆるゆると「アマチュア哲学者」をやってゆきたい。ただ問題は、話し相手がいなくなるということ。あと哲学を心のノートの延長の類だと勘違いしている人が多くて残念。そういうのは主張と論証が区別できていないところに難点がある気がする。なんかなあ。「難しい言葉で話すな、気持ちがだいじ」みたいのやっぱり無理だ。そういう空気が蔓延してるところに過労死やらポピュリズムやらの原因があるようにさえ思う。

書くの飽きた。人の関係をもっと大切にしたい。それと、

誕生日を祝ってくれたひと本当にありがとうございました。とてもとても嬉しかった。