色とりどりの棒

わかりたい

恐怖のバラエティー

 

 

帰宅が22時を回るような日が多くなり、輪をかけてテレビを見なくなってしまった。帰るとちょうど「報道ステーション」がついているくらいだ。

それでこの前の夜、ちょっと謎を秘めた感じのラーメン屋に入ったら、なんかのバラエティー番組がついていた。そして驚愕した。

その内容があまりにも酷かったからだ。

 

趣味と称して公の迷惑になるようなことをする者、違法物品を国内に持ち込もうとする者など(=わるもの)を公務員など(=正義)が果敢に取り締まってゆく。だいたいそんな内容で、まあ何も面白くなかったのだが、最後に極めつけの恐怖があった。

ビザなし滞在の中国人女性3人を取り締まる入国管理官の話だ。朝、女性らが普段通り自分のアパートの扉を開けた瞬間、屈強な入国管理官たちが仁王立ちしている (しかもテレビカメラまでいる)。彼らは住人に、パスポートとビザを見せろと威圧的に問い詰める。その結果不法滞在とわかった1人はその場で施設へ連行、最後に「法に従わない者に居場所はないのだ!」とかなんとかやたら勇ましいナレーションがはいって、番組は締め括られた。

それをバラエティーとして取り上げる企画自体が最悪だと思うのだが、さらに恐ろしいのは、残りの2人は結局のところ不法滞在者ではなかったということだ。ナレーションでほんの一瞬、「うち1人は本当に不法滞在者だった」と、その事実が告げられた。

驚愕した。

 

この国では外国人は、合法的に普通に暮らしていても、ある日突然玄関に威圧的な役人が来て脅されなければいけないのか。しかもそれを全国の電波で放送され晒し者にならなければいけないのか。そしてそれを喜ぶ者が、この番組の存続に十分なほど存在するということなのだろうか。

もしこんな不正確で恐ろしい取締がしょっちゅう起こっており、こんなくだらない公開処刑趣味(しかも冤罪)の番組が毎週のように放送され続けるのだとしたら、日本にいる外国人は早く逃げた方がいいのかもしれない。もし自分が晒される立場だったら、と考えると恐ろしくてたまらない。

 

そして不思議なのは、ああいう番組をみて喜びそうな人というのが、身の回りにそんなに思いつかないことだ。そうだとすると、僕の全く知らないような世界に全く価値観の違うコミュニティがあって そこが電波を掌握しているのか、それとも僕が身の回りの人を全く誤解していているのか、どちらかということになる。

まあ、恐らくどちらもある程度は正しいような気がする。

狭隘な集団心と義侠心、日本人であることの優越感、そんな錆び付いた感覚丸出しの残念さを感じてしまう番組だった。ただ、もはやその感覚がマジョリティというわけでは別になく、そのテレビ局やら広告代理店やらの一部のおっさんズ(等)の価値観でしかないのかもしれない。それが肌感覚だ。知らないけど。僕もそろそろおっさんズに片足を踏み入れてきたので、あんな無残なことにならないように、マジで気をつけたい。

 

などと一通りプンプン怒った結果、一方で超楽しい番組もあることは承知しつつ、暇なときに敢えてテレビを見なくてもいいかなぁ……という気持ちに拍車がかかってしまった。

 

 

(台風で)「経験すること」を経験したい

 

 

今日(2018年8月8日)の東京には南から台風が接近しており、朝から結構な荒れ模様でテンションが上がっている。今後の進路が気になるので気象庁のHPを見てみたところ、今回の台風14号は「サンサン」という名前なのだそうだ。可愛い。

 

何を今更そんな当たり前のことを、と思われたら申し訳ないのだけど、台風の名前ってどのように決まるのか知っていますか?僕は知らなかった。

気象庁のHP(https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-5.html  閲覧日は2018/8/8) にこんな説明がある。

 

台風の番号の付け方と命名の方法

 

[略]

 台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていましたが、北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本含む14カ国等が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)を付けることになりました。

 平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は25.6個ですので、おおむね5年間で台風の名前が一巡することになります。

 なお、台風の名前は繰り返して使用されますが、大きな災害をもたらした台風などは、台風委員会加盟国からの要請を受けて、その名前を以後の台風に使用しないように変更することがあります。また、発達した熱帯低気圧が東経180度より東などの領域から北西太平洋または南シナ海の領域に移動して台風になった場合には、各領域を担当する気象機関によって既に付けられた名前を継続して使用します。[略]

 

知らなかった。

台風の名前は、規則正しく循環していたのだ!知らなさすぎた。それから、大きな災害をもたらした台風はその名前を封印されるというのも知らなかった。国家を滅茶苦茶にした暴君が、その死後は二度とその名前を口にされない……的なものなのか。

 

そして、その名前も、このようにいろいろで面白い。(上記のHPを編集してみたけど見にくかった)

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■日本

日本由来の名前は「ヤギ」「うさぎ」など星座で統一している模様だ。まあ普通といえば普通だが、''Hurricane うさぎ is very powerful and terrific one.'' などという英語報道を想像したら、ちょっとじわった。

 

北朝鮮

北朝鮮由来の名前は(現地語で)「ひばり」「かもめ」「つばさ」など、どれも台風とは思えない牧歌的な雰囲気だ。なぜか国鉄特急の名前とよく被っている。

 

■香港

32番のMan-yiは「海峡(現在は貯水池)の名前」らしい。悲しい。貯水池にしないでほしかった。それにしても、香港由来の名前は意味欄が説明的なものが多い。香港担当の人は何かと説明的な人間だったのではないかと思う。

 

■余計な心配をする

37番の「6月」が8月に来る、97番の「徘徊」がストレートに通過してゆくなどという、矛盾した事態が起こりかねない。一体、なぜそんな命名をしたのか疑問だ。

 

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こんな感じで、台風の名前なんかで思いの外楽しむことができたのだが、なんといっても強烈なのはフィリピン由来のものだった。「速い」「野生の牛」「むち打つこと」「鋭さ」「鋭い刃先」などカテゴリも品詞もまるで統一感がないため、コンテンツが大変渋滞している。

 

特に38番の「経験すること」という命名は素晴らしい。どうしてこの名前になったのか、まるで想像できないところがよい。それに、形而上学的な雰囲気さえ漂っている。こんな名前だと、「経験すること による経験したことのないような土砂災害に警戒してください」などという言明が生まれかねない。

 

ところで、僕は 経験すること を経験したことがあるのだろうか。台風140の名前はおよそ5年で1周するのだそうだから、制度の始まった平成12年から発生した 経験すること は概算で3~4個。関東を通過する台風が仮に10個に1個程度だとして、僕が 経験すること を経験した確率は30~40%ということになる。微妙だ。

こうなると俄然、経験したい。そして運よく台風の目が通ったら、「これが 経験すること の中心か!」と叫びたい。突如現れた哲学的な青空を仰ぎ、不気味なほど心地よい風に吹かれながら、「経験」という難題の本質を悟るのだ……………。

 

おわり。たわ言は以上です。

 

 

月曜日からヤビツ峠

 

どうでもいい前段

何でもない月曜日を休みにしたはいいが、遊んでくれる人もいなそうなので10時まで寝てからピアノを弾いてみたりしたのだけど、13時頃には滅茶苦茶に暇だな以外の感情が消滅し、仕方ないのでツイッターを見たら、水道法が改正されて日本の上水が危ないらしいというのを思い出し、上水が駄目ならやはり美味しい湧水しかないので、自転車で丹沢に美味しい湧水を捜しに行こうと思い立った。

「丹沢で自転車といえばヤビツ峠があるな……」と考えだしたのは輪行の電車の中だ。これまでいろいろな峠に登ってみたけど、神奈川県に住んでいながらヤビツには登ったことがない。あそこはその知名度の故、僕のような運動能力の低い人間が休日に行くと、寂しい峠道のくせに交通量も多く、ガチ勢の自転車にも抜かれて、ものすごく精神的ダメージがでかいという。気が向かなかったのだ。

運動のできない特に男子は、よっぽどいい環境にいない限り、大抵は中学くらいまでそのことで苦労し、憂き目を見ることになる。僕は短距離走は人並みに走ることができたけど、球技の強烈な下手さと持久力のなさが (さらに悪いことには、文化部、鉄道おたく、背の順では先頭か2番目だったことも) 災いし、半ば必然的に青白い小中学生時代を過ごした。運動ができないことは、やはり大変な問題だった。大学で自転車を買ってからは、速さを気にしない、疲れたらすぐ休む、誰にも迷惑をかけない、という全く成長しない代わりに気負いもしない自転車の乗り方をして、それは結構楽しいことだった。運動は楽しい。でも中学生までの後遺症があるので、誰かと競争したり極限まで追い込んだりするのはちょっと嫌だ。

しかし、平日ならヤビツ峠といえども誰もいないのではないだろうか?誰もいないのならタイムアタックの真似事をして、仮に途中で降参しても、別に恥ずかしくないのでは?と思った。

そう思ったので、登ってみた。秦野駅に着く頃には、そんな思考になっていた。

 

本題

秦野駅からほんの数分走ると、名古木という名前の交差点があり、そこがヤビツ峠の始まりといわれている。ストップウォッチをセットして、いざ出発だ。未知数だけど、目標は50分にした。次に自転車から降りるときは標高761m、ヤビツの頂点にいるのだと考えると、峠好きとしては結構高まる。

と意気込んだが幸先が悪く、スタートから1kmも離れない街中で、防災頭巾を持った小学生の集団・道路に水を撒くおばちゃん・信号などに道を阻まれる。注意が必要だ。そして前半1/3くらいを占める街中の区間は、心を折るのに十分な斜度があるストレート区間でもある。早歩きくらいの速さでなんとか進む。15分くらいかけてなんとか蓑毛バス停を過ぎる。

すると道は森林の中に突入し、雰囲気はいよいよ峠らしくなる。ここは斜度が落ちるので何枚か残して無理なく進める。眼下の市街がどんどん小さくなり、遠くに相模湾まで見渡せる。車の気配はなくなり、代わりにホトトギスの声が聞こえる。楽しい。随分たくさんのカーブを進むと、やがて展望台がある。ここまで35分くらいかかった。20分で着く人もいるらしいけど最早悔しくもない。

 展望台を過ぎると、雲の中に突入した。右も左も前も後も真っ白で何も見えない。ホトトギスの代わりに悲しげな虫の声が聞こえる。どこからともなく獣のにおいがし、暗い山中にひとりでいることが怖くなってきた。なぜか探偵社の古い看板があり、それがまた不気味なのだが、間もなく霧の中に突然頂上が現れてゴールだった。目標には届かず54分で着いた。街中の区間で力を使わずに、後半に体力を残しておけばもっと早く着いたかも知れない。平日に来た甲斐があり誰もいなかったので、ショパン英雄ポロネーズを熱唱した。日光と無縁の暗い峠はかなり不気味で、熱唱はその不気味さへの対抗策だ。

 

麓に降りてから、途中の展望台あたりで自殺者が見つかったことがあるらしいと知った。そうだ、そういえば湧水を全然捜していない。次は真面目に捜そうと思う。美味しい湧水でうどんを造りたい。

 

 

2018/5/7 (題名思いつかない)

 

最近賑わっているジェンダーセクシャリティ関連の問題について、強く思うことは一応あるのだけど、思いつく限り大抵の主義主張・ケーススタディ的なものはインターネット2018に既にたくさん転がっており、無知な僕は今のところそれに賛成するとか反対するということしかできず、独自の意見やその根拠となる事例として雄弁するに値するものは結局のところ持ち合わせていないのだということを痛感してしまう。勉強不足だ。

それから自分は性的指向が女性であるような男性(心理的にも生物学的にも)、といういわゆる性的マジョリティなので、その立場から言うことができることは何なのかということを考え出すと、それはそれでとても難しい問題のように見える。

例えば、自分は男性が女性にするようなセクハラも痴漢も当然受けたことがないので (痴漢自体は高校生のときに経験したことがあるのですが……)、それがどれだけ恐ろしいものなのか (質的に) わかるはずもなかろうといわれてしまうと、たしかに。本当にその通りでしかない。ただ、違う立場におかれている人のことを質的に一人称的にはわからないとしても、言語的に命題的にはわかることができるというのがヒトの長所でもある。対象となる経験が自分にないということは、それについて思考を停止する理由にはならないはずだ。仮にも自分に都合が悪いからといってわからないことにする、というのはなんというか信条に反するから駄目だ (わかりはもっと高尚なのじゃ)。

そんなわけで、わからないから仕方ないで済まさないことだ。と思った。

 

 

いろいろな事件などがあって、にわかに盛り上がっているこの問題だけど、それでも男女に関係なく「結局過激なフェミニストが騒いでいるだけでは?」などという意見があちこちに転がっている。自分は加害者になったことは一度もないから大丈夫・この国の構造がそうなんだから多少は我慢しろ (そんな~!) 云々、いろいろいう人もいる。

ただ、この話に「関係ない」は誰であれ通用しないはずだ。この話のセクシャルな部分は確かに個人の問題かもしれないが、ジェンダー的な部分は言葉の定義上、共有されるべき社会全体の問題なのだ。関係ない人なんてひとりもいないはずだ。

例えば、「■■は~~という問題を起こした」というような個別事例は確かに私自身の問題ではないが、そういうことが起こってしまう背景にあるジェンダー的な不平等は私たち自身の問題でしかあり得ないのじゃないかなということです。

これまではセクシャリティの課題・ジェンダーの課題は語られる領域が少しずれていたように思う。でも当然そのふたつは完全に分けて論じることなんてできるはずがなくて、それが今やっと融合してきたということなんじゃないかな。

それに、賑わってきたこの話を「自分には関係ない」で済ますのはもったいないとも思う。これまで何十年何百年も続いてきた旧弊な構造を、個人の発信がなんとか壊そうとしているのだ。こういう動きを性差別の話で留めておくのは惜しい。他にもぶち壊さないといけないものがあるはずだ (metooを叩いている暇があったら、逆にもっと便乗して自分の文句もいっちゃえばいいのに……という気がする)。性差関係なく、半端なく旧弊なものに苦しめられているのはあるんじゃないかと思うのですが。残業やばすぎーーとかそういうやつでも。なんでも。

そんなわけで、自分には関係ないで済まさないこと。と思った。

 

少しがっかりするようなことがあって、長々と書いてしまったのでした。がっかりしたよ………。

 

 

 

多摩川のこと

 

自分は多摩のにんげんという意識がなんとなくあるので、そこを流れる川にも愛着がある。多摩川多摩地域を北西から南東へと流れる川で、やはり街の中を流れているイメージが強いけど、その源流は山梨県の山奥で、流域の半分くらいは山中の渓流なのだ。それに「街」のイメージが強い南側も、多摩丘陵の複雑な地形に開発が阻まれて、実は秘境みたいなところが随所に隠れいているのが面白い。家から数キロの範囲でも、まだ たけのこ狩りができる場所 や 蛍が自生している場所 や 探検しないといけない場所 が残っている。

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とにかくそんな立派な多摩川だ。鉄道(私鉄)が鉄橋で多摩川を渡る際には、しばしば駅名に「多摩川」が付く。みんな今から多摩川を渡りますよ、と一度宣言してから渡っている。えらい。具体的には、京王相模原線の京王多摩川小田急小田原線和泉多摩川東急田園都市線二子玉川東急東横線多摩川

……と列挙すると、東急東横線はなんなんだよ、と思う。他の路線は「自分にとっての多摩川は結局これなんですよね。」という自意識をしっかり持って、「○○多摩川」という駅名としているというのに、東横線だけただの「多摩川」とはなんだ。別にあなただけの多摩川ではないのだ、謙遜が足りない。

それから東急にはもうひとつ文句をいいたい。多摩川(駅)から蒲田を結ぶ路線を「多摩川線」と名づけるのは横柄だ。全長138キロもある多摩川流域のうち、たった5.6キロしか並走しないくせにでっかく出たな、と思う。仮に「多摩川線」という名前の路線があるなら、それはもっと川に長く寄り添う、南武線青梅線の方が相応しいように思う。

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多摩川の河口から羽村堰まではサイクリングロードがあって、天気がよければそこを のしぼう (という名前のロードバイク) で走る。サイクリングロードは信号がないから疲れないし、車がないから危なくないし、季節によってはピクニックしている人などもいるから楽しい。檜原に行くにも、奥武蔵や秩父に行くにも、23区に行くにもまずは多摩川に沿って走る。

大学に行くにも、長期休暇で定期券が切れるとよく多摩川沿いに走った。山に登りたくても、海に行きたくても走った。必要に迫られて真夜中に半べそで走ったりもした (あろうことか必要に迫られたときには酒を飲んでしまって、車を運転できなかった)。別に必要がなくてもへらへらして走った。

とにかく、ずいぶんたくさん多摩川を走った。本当にいろいろな場面で、そこに多摩川の景色があったように思う。 

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そういうわけで、この川が結構好きだ。多摩川は奥深い。えらい。昔は汚染が酷かったが、今では中流域でさえ鮎がいるほど綺麗になったらしい。鮎は本当にうまい。それとは関係ないけど、東急多摩川線も大好きだ。駅がみなローカルな感じでよい。特に年代物のベンチが各駅に残っていて、それがとてもよい。

多摩川サイクリングロード、走ってみてください。多摩川線にも、乗ってみてください。よろしくお願いします。おわり。

 

 

Disjunctivismなど

 

これまで第8章では、強い表象主義の正しさを論証する取り組みを追ってきていて、次第にわかりの総量が増えていっていた。第8章は最後に「表象的対象は志向的対象であること」「志向的対象を表象的対象とする表象主義は、物理主義的(もっと踏み込めば、タイプA物理主義的)な理論のもとで整合性を保つことができること」が証明されてゆく。

前者については、時空的対象 object in space-time やセンス・データといった、表象的対象としてのその他の候補が、錯覚の問題や存在論的な問題を乗り越えられる強靭性を持っていなかったということで篩い落とされ、志向的対象が候補として残ったということで概ねはいいような気がしている。

しかし後者は厄介だ。まず表象的対象を志向的対象として考えることは、本当に物理主義的なのだろうか、といわれたらどうしようか。例えば、「表象的対象=時空的対象説」(存在論的には素朴実在論的なやつ)は、錯覚や幻覚をうまく説明できないということで却下された。一方で、志向的対象はそれを汲み取れるという。なぜか。錯覚という本来の在り方から逸れたもの、幻覚という本来ならば存在さえしないものも、志向的対象ならば表象的対象として扱うことができるからだ。なぜできるのか。いや、というかはっきり言って、このように「存在しない対象」を心的なものとして扱うには、二元論に頼るしかないのではないか。この方針での物理主義は失敗するのではないか。

…………などという人が出てくるかも知れない。しかし筆者によれば、ある理由によって、この方針が二元論に頼る必要はないし、逆に、頼ったとしてもその論証はうまくいかない。だから、志向的対象説を二元論的だと論じるのはお門違いであるという。

では物理主義的に志向的対象を分析するとどうなるか。筆者はそこを乗り越えるのに、可能世界概念を使った議論を展開するのだけど、それは一旦いい。疲れた。

 

それはさておき。

少し前に選言主義テーゼというのが出てきたのだけど、あっさり否定されてしまって可哀想だったので調べてみた。Stanford Encyclopedia of Philosophyを眺めると、やはり選言主義テーゼの元となっているdisjunctivismというのはどうやら、perception (representationではない!)の種類に関する分析のようなのだ。彼らは、錯覚や幻覚とveridical perceptionsについて、それらは経験としては同じだけど、「根本的な部分では」異なる(あるいは、それらは別の種類の心的状態である)などというらしい。この主張は、志向性という概念を念頭に置いた上で、veridical perceptionsの特権性(?)を認めるので、心の哲学においての素朴実在論的な主張を擁護する。これがうまくいけばセンス・データ理論や可能世界を使った志向的対象理論などというややこしそうな理論を持ち出す必要もない。シンプルに時空的対象説でいきたいということだ。しかしもちろん、錯覚や幻覚の説明は難しくなるという欠点がある。

そういうわけで話が戻って、第8章の中で「表象的対象=志向的対象」説を擁護するステップとして、選言主義者的な主張を持ち出して論破するという、そのやり方自体に感じていた違和感とは、それらの議論の前提に表象主義が正しいということがあり(それは「最小の表象主義」を使って証明済だ)、では次にそのrepresentationの詳しい分析としては何がいいかなという階層の話をしているのに、ここでperception自体に関する理論(=disjunctivism)という一階層上の問題圏を扱うものを持ち出しても大丈夫なの……?ということであったようだ。言い換えれば、disjunctivismは表象主義の正しさを仮定すると確かにうまくいかないかもしれないが、もっと別のフィールドではうまく志向性とperceptionを説明する能力があるかもしれないじゃん、ということである。本当に大丈夫なのか。

とはいえ、確かに心の哲学での素朴実在論はいまいちな気がする。ということはdisjunctivismもいまいちな気がするということだ。本当にいまいちなのか。

わからない。

まだ、選言主義テーゼとして変則的な登場をしたdisjunctivismの概要を知って、自分が何にもやもやしているのか、ということがわかっただけだ。これでdisjunctivismへの批判がよくわかれば次に進める。早くわかりたい。

 

 

「強い表象主義」界隈について その二

 

 

勉強ノートの続き。

ジャクソンが「最小の表象主義」と「透明性テーゼ」の正しさを信じ、それを用いて「強い表象主義」を導く仕方は、その論理的不明瞭さの問題もあり、必ずしも説得力のある論証とはいえないと山口先生は考えている。しかし、強い表象主義を証明しないことには「クオリアは知覚や感覚の表象的性格を越えない」(p221)というタイプA物理主義的な結論を導くことはできない。そこで著者本人による「論理的に妥当な」強い表象主義の証明がここでは行われる。

 

ところで山口先生によれば、「心的状態それ自体が主体へ提示するもの」(p222)という意味合いとしての心的状態の性格 character を考えるとき、それは「対象の性格」「自立的性格」という2つに分類される。「対象の性格」は字義通り対象へ帰属する性格である。一方の「自立的性格」とはその反対で、いかなる種類の対象にも属さない性格のことである。とはいえ、あくまでひとまず考え方を便宜上このように分類しただけであって、両者が共に存在するというわけじゃない。

さらに、心的状態の対象についても「表象的対象」と「非表象的対象」の2種類に分類する。前章で確認したように、表象的対象は志向的対象であり得る。この考え方は世界を「正しい表象をすること」/「誤った表象をすること(錯覚とか)」を的確に説明する。(とはいえ、例えば心的状態の議論における直接実在論を錯覚の存在などを考慮して否定したような状態で、志向的対象に対しての世界の表象の「真偽」はどうやって決定されるのかはまだ全然わからない。しかしこの点は、後に可能的個物という概念を伴って説明される。よかった。)

一方で非表象的対象とは、それがセンス・データであるような対象のことだという。表象には実際のところ真偽があるという特徴を鑑みると、センス・データはその特徴を汲み取って説明することはできておらず、だからそれが世界を表象しているとはいい難い。センス・データは、「通常の対象」とは存在論的身分が全然違うのだ(だが、いきなり通常の、などと言われてもなあという気も少しする)。

 

さて、以上の道具立てが揃ったところで、選言主義テーゼ the Disjunctivist Thesis と、その逆である非選言主義説 the Non-Disjunctivist Thesis が導入される(p225)。ここがある意味で議論の真打ちなのだが、ここを読んでいると、山口先生の目指した論理構造とは、述語論理的なそれだったのか、ということが見えてくる。骨格を掴むだけならもう少しだ。

それで、ここでの選言主義テーゼとは、「心的状態が、表象的対象と非表象的対象を併せもつ」(p225)ということである。つまり、心的状態の対象は2種類あるということだ。非選言主義テーゼはその逆で、心的状態は前者のように表象的対象と非表象的対象が混ぜこぜになることなどない、心的状態の対象は1種類だけだという命題である。つまり、非選言主義テーゼによれば、心的状態の対象は完全に表象的対象であるか完全に非表象的対象であるかのどちらかである。

ここで著者は非選言主義テーゼが正しいと考える。なぜなら、選言主義テーゼの場合は、心的状態においてはどこまでが表象的対象(≒志向的対象)で、どこからが非表象的な対象(≒センス・データ)なのかを判断することの無理みなど、なにかと無理みがあるからだ。

この議論が正しく、また最小の表象主義が同時に正しいのだとしたら、選言主義テーゼのみならず、非選言主義主義テーゼの「心的対象は完全に非表象的対象である」という一方のオプションも拒否される。

つまり、心的対象は完全に表象的対象である。これは強い表象主義の主張に他ならない。

 

なるほど。

この議論の骨格は、「あるものはRである」「全てのものがRであるか、全てのものがRでないか(のどちらか)である」という前提から「全てのものはRである」を導くという、明解に述語論理的な推論であり、確かにわかりみが深い。後でちゃんと計算してみようと思う。

でも、これだけでは志向的対象こそが正しい表象的対象の解釈であるということがよくわからないし(これはこの後のテーマになる)、結局この議論は解放されたメアリーに何が起こったという議論なのかもまだわからないし(これは前章の議題)、そもそも最小の表象主義が本当に正しいのかについてもセカンドオピニオンがほしい。それから、選言主義テーゼの否定が少しあっさりしすぎている気がする。もう少し知りたい。等々、やはりまだ、わかるという気持ちになるには早い。早くわかりたい。