色とりどりの棒

わかりたい

2018/5/7 (題名思いつかない)

 

最近賑わっているジェンダーセクシャリティ関連の問題について、強く思うことは一応あるのだけど、思いつく限り大抵の主義主張・ケーススタディ的なものはインターネット2018に既にたくさん転がっており、無知な僕は今のところそれに賛成するとか反対するということしかできず、独自の意見やその根拠となる事例として雄弁するに値するものは結局のところ持ち合わせていないのだということを痛感してしまう。勉強不足だ。

それから自分は性的指向が女性であるような男性(心理的にも生物学的にも)、といういわゆる性的マジョリティなので、その立場から言うことができることは何なのかということを考え出すと、それはそれでとても難しい問題のように見える。

例えば、自分は男性が女性にするようなセクハラも痴漢も当然受けたことがないので (痴漢自体は高校生のときに経験したことがあるのですが……)、それがどれだけ恐ろしいものなのか (質的に) わかるはずもなかろうといわれてしまうと、たしかに。本当にその通りでしかない。ただ、違う立場におかれている人のことを質的に一人称的にはわからないとしても、言語的に命題的にはわかることができるというのがヒトの長所でもある。対象となる経験が自分にないということは、それについて思考を停止する理由にはならないはずだ。仮にも自分に都合が悪いからといってわからないことにする、というのはなんというか信条に反するから駄目だ (わかりはもっと高尚なのじゃ)。

そんなわけで、わからないから仕方ないで済まさないことだ。と思った。

 

 

いろいろな事件などがあって、にわかに盛り上がっているこの問題だけど、それでも男女に関係なく「結局過激なフェミニストが騒いでいるだけでは?」などという意見があちこちに転がっている。自分は加害者になったことは一度もないから大丈夫・この国の構造がそうなんだから多少は我慢しろ (そんな~!) 云々、いろいろいう人もいる。

ただ、この話に「関係ない」は誰であれ通用しないはずだ。この話のセクシャルな部分は確かに個人の問題かもしれないが、ジェンダー的な部分は言葉の定義上、共有されるべき社会全体の問題なのだ。関係ない人なんてひとりもいないはずだ。

例えば、「■■は~~という問題を起こした」というような個別事例は確かに私自身の問題ではないが、そういうことが起こってしまう背景にあるジェンダー的な不平等は私たち自身の問題でしかあり得ないのじゃないかなということです。

これまではセクシャリティの課題・ジェンダーの課題は語られる領域が少しずれていたように思う。でも当然そのふたつは完全に分けて論じることなんてできるはずがなくて、それが今やっと融合してきたということなんじゃないかな。

それに、賑わってきたこの話を「自分には関係ない」で済ますのはもったいないとも思う。これまで何十年何百年も続いてきた旧弊な構造を、個人の発信がなんとか壊そうとしているのだ。こういう動きを性差別の話で留めておくのは惜しい。他にもぶち壊さないといけないものがあるはずだ (metooを叩いている暇があったら、逆にもっと便乗して自分の文句もいっちゃえばいいのに……という気がする)。性差関係なく、半端なく旧弊なものに苦しめられているのはあるんじゃないかと思うのですが。残業やばすぎーーとかそういうやつでも。なんでも。

そんなわけで、自分には関係ないで済まさないこと。と思った。

 

少しがっかりするようなことがあって、長々と書いてしまったのでした。がっかりしたよ………。